方言について。
ピョンチャンオリンピック、女子カーリング銅メダルが決まった瞬間、選手たちは抱き合って泣いた。アレはたしかに「泣ける」メダルだ。ただでさえカーリングはリーグ戦で長い。毎日毎日オリンピック期間中はやってる印象だ。ましてやワタクシたち(あえてワタクシ「たち」と言ってしまうが)は、カーリングが脚光を浴び始めた小笠原(小野寺姓の時から)選手時代から始まり、本橋選手時代を経てきているのを見ている。「やっと」というのが正直なトコロだ。歴史を感じさせるメダルだから泣けるのだ。
今回のメダル奪取はスウェーデンに勝ったのが大きかっただろう。メダルを取るにはこういった金星というかミラクルというか自分たちで起こす奇跡が1つや2つ必要なのだと思う。おめでとうと言いたい。
そしてやっと本題に入る。
カーリング女子についてこんなツイートがTLに流れてきていろいろ思ったので書くコトにする。以下ツイートの引用↓
『カーリング女子の北海道弁、「子供が真似して困るから公共の電波に乗せないでほしい」という衝撃的な意見を見た。真似されたら困る北海道弁。初めて北海道差別を目の当たりに。あ、そうですか。』
ワタクシは生まれも育ちも東京なので方言に馴染みが無い。だからどこまでいっても地方の人が感じるであろう「方言のコンプレックス」を完全に理解はできないだろう。でもひとつ分かってほしいのは、方言を使う=馬鹿にしてる、だけではないというコトだ。ソレだけではない。たしかに馬鹿にしてる人たちもいるだろうけど、単純に音のひびきがかわいいとかイントネーションが独特で印象に残るから口にしたくなるとか、なんとなくマネしたくなるというのも方言にはあるだろう。ソレすら「バカにされてる」と地方の人からすれば思うのだろうけど。「かわいい」と「バカにされる(と感じる)」は紙一重なトコロがある。
もはやTVで関西弁を聞かない日は無い。「なんでやねん」というのはお笑いのツッコミの言葉ではあるけど、ようは関西弁だ。でも東京の人だろうが普段普通に使っているだろう。ソレはもう方言というより「お笑いにおけるツッコミの言葉の1つ」として捉えられてると言えなくもない。おそらくツッコミを入れるときに他の言葉じゃなんだかしまらないとかイキオイが足りない、言葉の強さ鋭さが足りないなどの理由で「なんでやねん」を使う。コレだけ一般化されても関西の人からすれば「なんだかバカにされてる」ような感じもあるだろう。
いつ頃からか知らないが、東京でも女子高生より下の子達の間で、自分のコトを「私」じゃなく「ウチ」という子が見受けられるようになった。誰が言い出したのか知らないし、アレなんかは聞いててもたしかにワタクシには違和感がある。関西の人でもないのになんでみんなしてこぞって「ウチ」と言うのだろう?と。何年か前、某ナカイ君が語尾に「〜だべ」と言うようになった。彼のお国言葉でもないはずだし、そもそも方言として使ってるかどうかも分からない。なんとなく言葉の抑揚の変化というか親近感的に使ってるに過ぎないのカモしれない。けどワタクシはそのへんから若者には「方言」というモノになんとなく憧れみたいなモノがあるのではないか、と思うようになった。
カーリング女子たちが競技中に話してるのは北海道弁だそうで(生粋の北海道弁かどうかは分からないが)、聞いてると彼女たちのイントネーションが歌みたいな感じにも聞こえるし「そだねー」とか言ってるのも聞こえるのだけど、そういった言葉を子供が真似するから公共の電波に乗せないでほしいという、ようはクレームだ。
ワタクシがまず思うのは、単純にじゃあもし自分が普段なにげに使ってる言葉をそういうふうに言われたらどう思うだろうか、というコトだ。ソレは悲しいコトだろう。この親はそういう相手の気持ちを分からないのか?というのがひとつある。子供を守るためなら他人には何しても構わないのだろうか、と。
そしてもうひとつ。子供が北海道弁を真似するからといって、ソレが子供にとってどう有害なのか。たしかにたとえば学校に北海道出身の子がいたとして、その子をいじめたり囃し立てたりというのは可能性としてありえなくはないカモしれない。じゃあ実際に北海道出身の子がいるのだろうか。調べたのか。いじめの現場を見たのだろうか。そういう理由ではなくただ単純に子供が真似するのがイヤなだけなのだろうか。
子供なんてすぐ飽きるのだ。ソレこそ今回の北海道弁なんてオリンピックが終われば言わなくなるだろうし、せいぜいが3月いっぱいぐらいのモノだろう。またすぐ次の何かが流行る。ほっとけばいいのだ。ソレでもイヤだと思うならあなたがしつけなさいよ。親の態度としては「そんなコト言ってないで勉強しなさい!」でいいのだ。そして「やれやれ」とシブい顔してるのが正しい。
そもそも子供が通ってるであろう学校にはいろんな子がいる。中には地方出身の子だっているだろうし、別に地方とか関係なくいろんな考えであり性格の子がいる。そういう多様性のカタマリというか社会の縮図、が学校なのだ。ソレを子供にとって悪影響だからといちいち反応して排除してたらキリがない。親の過干渉というモノだ。親がそういう反応や行動をしてしまうと(「考える」までは個人の自由だけど)、かえって子供に有害ではないだろうか。子供が自分に合わないモノを排除したりというような考えをもつようになったら、ソレは社会で生きづらくなるのでは?むしろ今回のコトで北海道や方言やカーリングに興味を持てたとしたらその子にとっての世界が広がるのではないのだろうか。そういった可能性や寛容さというのを狭めてしまう、取り上げてしまうのではないだろうか。
ナイフが危ないから売るなというのではなく、ナイフの使い方取り扱い方を教えるのが親のしつけ、ではないのだろうか。
「お客様は神様です」という言葉のはき違えというか、最近こういった大人の寛容さというか余裕の無さが気になる。世の中、余裕が無い。なんでもクレームつければいいてモンじゃない。モンスターなんちゃらとか。でもTVでカーリング見てるぐらいだからヒマなんだと思うけど、ソレでも子供をしつけてる時間は無いというのだろうか。
最近TVの番組でやたらやるようになったのが、外国人が日本の文化にネットなどで触れるようになって一所懸命真似したり「リスペクトしてます」なんていうのがあるが、ああいうのを見ても決して「バカにされてる」とは思わないし、むしろ微笑ましいとすら思う。ソレはワタクシたちに余裕があるからだ。そういうウェルカムな感じがソレゾレの人の中でもっと広がればいいんじゃないだろうか。