レッスン。
もしもあの世があるのだとしたら、ワタクシたちはあの世へ行くための修行というか練習を、普段の生活において知らず知らずのうちにしてる。なんか最近そう思える。
例えばこのPCの画面を見てるという行為。TVや映画も同じだけど、画面の中では様々な人々や動物なんかが動いてる。彼らは画面の中の世界の住人なワケで、ワタクシたちはソレを見てる。
ワタクシたちは、分かりやすく言えばある意味「神の視点」のような、そういう俯瞰的な視座にいて、画面の世界を眺めてる。画面内の2次元の世界を3次元世界のワタクシたちが見てる。コレを1次元引き上げると、ワタクシたち3次元世界を、より高次元の存在が、たとえば空から俯瞰的に眺めてる、そういう視座があるという想像は成り立つ。
もしもあの世というモノがあるとしたら、ワタクシたちはワタクシたちの3次元世界の住人としてよりも、より高次の存在になるための、いわば修行であり練習をこの世界でしてる、というコトも考えられる。
コレは画面の話だけじゃなくて、たとえば子育てとか人と接する、自分に対してとか対人関係なんかでも当てはまるコトであって、親と子供がいくら愛情があるからといって距離が近すぎても、子育ての上ではあまりよろしくはないだろうし、時には突き放すのも愛情であろうし。というのは、本来は子供が巣立つ、自立するためのサポートが親の務めだろうから、「親と子供がお互いを見つめ合う」というよりは、親と子供が「未来」を見つめる、コレが大事なワケで、視線が「その先」になければならないはず。
「愛」という言葉があるけど、ワタクシはこの「愛」というのは、たとえば「2人さえ愛し合っていれば世界がどうなっても構わない」というのは、本当の愛のかたちではない、と思ってる。たとえソレが「愛」だとしても、ソレは程度の低い、レベルの低い愛であって、どんなに距離が離れたとしても、別の世界にお互いがいたとしても、あなたのコトを見守っています」というのが本来の「愛」と呼ぶモノだと思う。ようするに前者の「2人さえ〜」というのは2人の距離が非常に近く、後者は距離がどれだけ離れてても構わない、物理的距離、精神的距離ともに関係ない、というコトで、後者は物理・精神を越えるモノなワケで、ソレが本来の「愛」のエネルギーだと思う。たとえばご先祖の方々の子孫への時空を越えた思いとか、そういったモノこそ。
いわゆる神様や仏様、他にそういった信仰の対象になる存在というのは、ワタクシは詳しいワケじゃないけど、おそらくそういった俯瞰的視座にいる、ワタクシたちの世界を眺めてる、見守ってる、とは思っている。なので、簡単に言えば、ワタクシたちはそういった存在の真似をすればいい。そういう練習をこの世でするコトが、いずれワタクシたちがあの世へ行った時につながってくる。
近しい距離という執着から離れて距離をとる、優しく見守るような視点を得る、ソレがこの世のレッスンなのだと思う。あの世へ行ったらこの世に介入が、手出しができないのなら、そういうレッスンは必要になってくる。だから子育てや自分への執着など、やがて本来の愛というモノに気づくようなレッスンが、この世に組み込まれている。