「意識」という軸。
ワタクシが最近「こうなんじゃないか?」と考えてるコトの1つに「意識」という軸があるんじゃないか?というのがある。
この世界というのはみなさんご存知のように縦・横・高さ(または深さ、奥行き)の3次元の世界で、コレに時間も加えて4次元時空なんて言い方もされる。まぁ時間を縦横高さと同じような軸として数えていいのかどうかは置いといて、ワタクシはコレに加えてもう1つ「意識」というのが軸としてあるように思う。
どういった軸かというと、
意識⇔無意識⇔情報(着想など)の領域・階層
こういう流れ。
ただワタクシたちはこの軸上を自由に移動はできない。まぁせいぜいが寝てる時に夢を見たりして(無意識層と意識層の記憶のないまぜになった世界というか、そういう映像、バーチャルリアリティなモノ、ようは脳が勝手に作り出したモノ)無意識層にアクセスしたりするコトはできるけど、自分が思うがまま、自由に行き来はできない。
着想を得るコトも同じ。何かアイデアをひねり出さなきゃいけない時(緊張状態、意識し過ぎの状態)にはかえって何もアイデアが出ずに、もういいやと半ばあきらめかけた時、風呂場なんかでリラックスしてる時に突然着想を得られたりして、メモもとれない状況の中、なんとか覚えておこうとする、そんな行為も結局は自分の思い通りに着想は得られないから、コントロールができないからだ。
その「思い通りの行かなさ」は時間にも似てる。ワタクシたちはこの身を持ったままで過去や未来に自由に行き来はできない。よって時間を1つの軸として数えるのなら「意識」というのも1つの軸として数えてもいいのでは?とワタクシは考える。
ソレとも「時間」と「意識」は密接につながってるモノだから「時間(意識)」と()カッコに入れて1つとして考えてもよさそうだけど、しかしワタクシたちが生まれる前にも時間は存在するし、ワタクシたちが死んだ後も時間はおそらく存在する。ただ自分の「生」の時間が無くなっただけと言える。このように「時間」と「意識」は性質は似てると言えそうだけども、別個の軸として考えていいのでは、と思う。
意識と無意識と情報の階層・領域、その軸を自由に行き来できる人というか存在、分かりやすく表現するのなら、信仰の対象とされてる預言者であり仏陀、そういう方々はこの軸を自由に行き来できたのではないだろうか、とワタクシは考える。「生きながらに死ぬ」とはそういうコトなのだと思う。
自分が自分に近しい状態(緊張状態、意識し過ぎの状態)の時は、意識が全面的に支配してるので脳にスキが無い。脳の筋肉がカッチカチだ。かたやリラックスしてる状態の時は、ようは脳の筋肉がほぐれて、新たなアイデアの着想が脳に入り込んでくるスキマがある、というコトだろう。
ではこのリラックス状態を究極的にリラックスした状態まで自分でコントロールできたなら。自分が自分に近しい状態を100%の意識支配率として、↑に書いたような風呂場でのリラックス状態を50%の意識支配率としたなら、さらに言えば寝てる時の夢を見てる状態が30%の意識支配率とするなら、0%、または限りなく0%に近い(自分という個体の存在を維持するための最低限の意識。0%だと死んじゃってる状態カモしれないからこっちカモしれない)のが預言者や仏陀のような方、カモしれない。イタコと呼ばれる人もそうカモしれないし、チャネリングとかもそうカモ。シャーマニックなモノは、とりあえず自分の意識をOFFにするよね。
「自分」「自我」(意識の支配=ノイズ)が無く、↑に書いた軸がつーつーの筒抜け状態(まるでトランペットのような楽器の状態。またはスピーカー、音声拡大器としての身体)だからこそ、情報の階層・領域にアクセスして得たモノ(イメージだったり言葉だったりメロディだったりさまざま)を受け取れる、または受け取りやすい、そう言えるのではないだろうか。ノイズがガーガーピーピー入ってたらスピーカーて、聞き取れないでしょ(笑)。クリアな方がいいワケだ。ただ得られる情報があまりに抽象的だから、人は言葉に変換したり映像に変換したりして「着想を得た!」としてる。あるじゃない。「モノを考えてる時に「なんか、、こんな感、、じ、なん、、だけ、ど」てイメージとか言葉がもやもやしてハッキリ定まらなくて「うぐぐぐぐ」て時が。アレなんか変換に苦労してるんだよな。