『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を観にいった。(ネタバレあり) その4
『ヱヴァQ』について、もう少しお付き合いを。
『破』でのシンジのヒロイズムというかヒーロー願望の、『Q』での全面否定についての話なんだけども、『破』は使徒に取り込まれたレイをシンジが助けるという、モノすごくハッピーエンドというか美しい話で終わる。でもレイはといったら別に助けて欲しいとは言ってないしこのままでいいのとすら言ってるし。ただシンジの命懸けの訴え・行動に、レイの中に少しだけ芽生えた自我が反応しただけ。ソレはレイが自分を助けて欲しいという本心からくるモノなのかどうかは分からない。レイ自身というよりただ「シンジのため」に採った行動なのカモしれないとも読み取れる。
そしてレイを助けようとしたために初号機は覚醒してしまい、結局サードインパクトを惹き起こしてしまった。ヴィレのミサトたちからすれば惹き起こして欲しくなかったワケだから、コレは望みとは逆の結果になってしまった。「レイへの慕情」というよりは「自分が心の支えを失ってしまうコトへの絶望感」、コレをシンジは怖れてたとも受け取れるワケで、ようはシンジ自身のエゴによるモノ、シンジの感情まかせの行動のせいで、ミサトたちは望まない形で世界を変えられてしまったワケだ。
でも1つ気になるのは、『破』でシンジがレイを助ける時に、ミサトは「いいのよ!」とシンジに「あなたの思うがままにやりなさい」と後押しするエールを送ってたんだけどね、、。コレはどうなんでしょうかね。ソコの責任は。ソコは1つツッコミドコロだけど。
でもまぁミサトたちからすれば、シンジはコトを惹き起こしたA級戦犯になるワケですよ。だから覚醒してしまった初号機の力を封印するためにシンジにチョーカーを付け初号機とシンクロさせないようにして、シンジ抜きでも自分たちでNERVに対抗できるようになったから、シンジはお役御免、でもシンジがNERVに渡るコトはあってはならないから自分たちの監視下に置く、とこうなるワケだ。正義というのは、一方では正義だとは限らない。まるでどっかの国のような、『破』のちゃぶ台返し。コレが『Q』。
でも今回『Q』でまたシンジはやっちまうワケだ。今度はハッキリとカヲル君は「やりを抜いてはダメだ!」と拒んでるにも関わらず、「いや君がやりを抜きたいて言っただろう!」と突き進んでしまう。まさに「やり抜きたい!」(笑)。エヴァ的に言えば暴走か。暴走シンジと化すワケだ。コレなんかまさにシンジのエゴでしかない。
というのも実際はレイを助けていなかったという事実によって、唯一の心の支え、拠り所を失ってしまったからこそ、その喪失を自分の中で「今度こそ!」と補おうとしたワケだよな。でも結局は自分の暴走によってまたカヲル君を失い、シンジは何も支えがなくなってしまった。みんな自分から離れてく。
結局シンジにとってレイという存在は「映し身として自分」だった。シンジはレイに自分の姿を見つけて、ソレを救いたかったワケだ。ソレはTV版でも読み取れる。「自分」を助けたかったからこそ、「他人」であるアスカは助けなかった。
レイ=「映し身」としての自分、自分にとって都合のいい存在。
アスカ=(友達だけど)他人。自分にとって都合のよくない存在。
そして映画のラスト、射出されたエントリープラグからシンジはアスカによって助けられる。たぶん彼にとっては2度めのはずだ。劇中では描かれてないが『Q』がループだとしたら、おそらく『破』の後もシンジはアスカに助けられたはずだ。いつか見た光景。何度も立ちはだかる「他人」のアスカ。自分にとって都合のよくない存在。「所詮他人」のアスカはシンジにとって「世界」であり「自分に都合の悪い現実」とも言える。シンジはアスカを助けなかったが、アスカは(たぶん)2度、シンジを助けている。彼女は自分と違う世界を受け入れている。その分大人だ。だから「ガキシンジ」と彼女は言うのだ。
「いつまでそうやって自分から目を逸らして逃げ回ってばかりで!もっと現実に、自分に目を向けなさいよ!」というアスカの声が聞こえる。
ちなみに意外だなと思ったのは、アスカは『Q』の劇中「ごめんね」と一言だけ告げて、わりとあっさり弐号機を自爆させてる。初号機=シンジの母親であるユイの魂、弐号機=アスカの母親の魂、という設定がまだ有効なら、このシーンはアスカの親離れを明確に表してる。この1点でもシンジは「ガキシンジ」なのだ。
男はつらいよ、女は強いよ、である(笑)。
その5へつづく