『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を観にいった。(ネタバレあり) その3
NERVとヴィレの対立という図式があります、と。ソレはワタクシの解釈で言うと、いわば「個」の死と「個」の生であると前回書いたワケだけど、なんでそういうふうに解釈したかというと、『Q』と同時上映されてる『巨神兵東京に現る 劇場版』を先に観たからなんだね。
先にコレ観て、ものすごいインパクトでさ。おまけにいわゆる「21日」の前日だからね(笑)。この世のおわりというか、なんかちょっとクラっとくる感じもあるワケよ。でもあの巨神兵の大群から逃げて逃げまくって生き延びるていう主人公のセリフがね。どうにも助かりそうにないじゃん、あんなね、大量で。でもソレでもなんとか生き延びるていう抵抗というか、まさにWILLE、意志ですよ。死が襲ってくるワケですよ、ソレに生が歯向かう、抵抗する、神とか運命というモノに人間が抗うていう構図がそのまま『Q』にも活きてくるワケだな。だからね、ヱヴァ(エヴァ)とコレはテーマというか表現してるモノはいっしょなんだな、地続きなんだな、そう読み取りましたよワタクシは。だから同時上映なんだと。同時上映で、セットで観るコトでより『Q』の見方が分かり易くなりましたよ。
実際NERV側のレイは魂が無いというか自我が無い存在で(人物といっていいのかすら分からない)、今回はさらにオリジナルのレイではなくコピー品だからね。カヲル君も似たような者なワケだ。で、あの人気の無い、荒れ果てたNERV本部。あの変わり果てた景色そのモノが廃墟というか「死」を連想させる。ようするに「死んだモノの世界」なんだよ、NERVは。
かたやヴィレ。ミサトさん、リツコは、、あんまり14年という歳月は感じないんだけども、歳は取ってるんだろうか?そういう設定でいいんだろうか?リツコはベリーショートにはなったけど。でもトウジの妹の成長した姿が「14年」という歳月を裏付ける。
でもね、コレちなみだけど、トウジて新劇場版ではアスカに取って代わられて、単なるシンジの友達に「格落ち」してしまった。後々シンジがNERVでトウジの名前入りの服を手にして「ひぇ〜」て恐怖するシーンがあるんだけど、アレは本来オカシイんだよ。でもワタクシの見方で考えれば、やっぱりNERVは死んだモノ側の世界になるワケなんですよ。この「トウジの亡霊」にしても。シンジは服に「亡霊」を感じたワケだよ。トウジの怨念とも言えるね(笑)。ソレと同じように、アスカが主人公となって、シンジもお役御免となって抹消されてしまうよ、というメタ的な恐怖からくるモノなんだよなアレは。「ギャー!このままだとトウジと同じようにボクも用済み??」ていう。でも逆に「オマエこんなトコロにおると、ワイのように消されてしまうでぇ!」とトウジがシンジにメッセージを送ってるのカモしれない。そうも読み取れる。そこんトコもNERVは「死」側だという見方を強化させるモノになってるんだよ、ワタクシの中では。
ただアスカとマリも歳取ってないのが気になるんだよなー、、。マリはなんとなく分からない気もしないでもないけど、アスカもなの?ていう。コレは1つ謎だね。そのへんはどーなんだろ。次回作観れば分かるようになるのかな〜?
て、なかなか『破』でのシンジのヒロイズムというかヒーロー願望の、『Q』での全面否定についての話にならないな。次回あたりでその話をして、その次に次回作はこうなるんじゃないか?ていう話を書きたいねー。