本という身体、身体という味わい。
ども、神出鬼没のやぎ本のぢぇーむすです。
ネットでこんなような設問を見かけました。「本は将来どのようになるか?」
わたくしはおそらく音楽でいうところのCDと同じような末路をたどることになると考えております。情報というのはデジタル化され、デジタル化できるものはいずれ無料に限りなく近づきます。電子書籍という形でデジタル化され、PCやスマホ等の画面上で本を読むことができます。これは音楽と同じです。部屋の場所を取りません。所有する手間が省けます。好みの本を何冊でもPCやスマホに入れて持ち歩くことができ便利です。
かといって本がなくなるかといえば、CDやかつてのレコードと同じように数を減らしながらも存在し続けるでしょう。でもおそらく音楽と同じように、本を扱うお店というのも数は減るでしょう。というより現状、書店は減り続けています。この流れを止めることは非常に困難でしょうけど、わたくしは情報のデジタル化、非物質化は否定はしません。ただ、それだけだとつまらなくないですか?味気なくないですか?という感もなくはないです。
例えば人、に限らず生き物でもいいですが、情報という非物質だけでいいなら、なぜ生き物は身体という物質的な形態を採用してるのでしょうか?
身体が無い方が便利じゃありませんか?身体があるというのは不便です。痛かったり疲れたり、寒かったり暑かったり、腹が減ったり面倒くさいことこの上ありません。おそらく身体が無い方が自由で良いでしょう。身体があるために行動が制限されます。でも生き物はこれを採用しています。
わたくしは「所有する」というのは「味わい」だと思うのです。本もCDも身体と同様にあったらあったで邪魔なものです。場所を取ります。形あるものは風にさらされやがて劣化していきます。けど、そこに時間というものが見て取れ、味わいが出てくるのだと思います。