『ぼくのおばあちゃん』のつづき。
ただそういうファンタジー方面ばかりではなく、リアルな「親の介護」とか老いた親との家族の関わり方とかにも触れている。映画の主旨とは違ってくるのであまりリアル方面は克明には描かれてないけど、現実は映画で描かれてるよりもっとシビアだ。
劇中では、ホームにおじいちゃんを入居させるかさせないかという問題を抱える夫婦が出てくる。夫婦はコレから家を建てようとするのだけど、その家を親と同居できる二世帯型にするかどうかで夫婦がモメる。夫は外で働いてるから、奥さんが義父の面倒を見るコトになる。そうすると四六時中顔を付き合わせるコトになり、そうなるとツラい。だからおじいちゃんをホームに入れたいという奥さん。この時、おじいちゃんは話に加わってない。子供も加わってない。夫婦と住宅販売の営業(主人公の岡本健一氏=大人になったともちゃん)の3人で話を進めてる。
映画の主旨とは違ってくるのは承知の上で書くけど、ワタクシは老人ホームなどの施設を利用するのは決して悪いコトではないと思う。コレは作品では描かれてないけど、奥さんが親の介護をするのは大変ケッコーだが、1人でやってたらやがて煮詰まってしまう。介護する側が精神的におかしくなってしまう可能性もある。なのでコレも安全弁、週のうち何日か施設に入居させたりサービスを受けるコトは、介護する側にとって必要なのだ。そして介護する側は1人で抱えこまないで、誰でもいいから話を聞いてもらったりする。そうするコトで適度にガスを抜きながら介護が続けられる。ゴールの見えないマラソンなのだ。介護する人が倒れてしまってはどうしようもない。閉鎖的にならないで、親の面倒を見るというのは誰でもありえるコトなのだから、開放的にするべきなのだ。
ただ作品では「親の介護をする」という前提を抜きにして、奥さんが感情的に毛嫌いしてるので、そうではなく家におじいちゃんが居ると良い面もあるんだよ、というコトを描いている。とかくお年寄りというのはジャマもの扱いされるけど、人生経験の豊富さがある。先ほども書いたが、親というのは子供との距離が近いから、いざという時パニックになって動けなくなる可能性がある。そういう時におじいちゃんみたいな存在がいると頼りになるのだ。映画では「家族」というのがテーマだから「施設へ入れる=地獄、罪悪感」みたいな描き方になるのはやむをえない。けど現実はこうだ、というのをあえてワタクシは書いてみた。たしかに親世代には「施設へ入れられる=ジャマ者」みたいなイメージは依然としてあるだろう。でもコレはお年寄りの社会性を保つためにも、時々は他人と触れ合った方がいい。脳の活性化だ。そのために施設を利用するというのもある。
特に現代は共同体というモノが無いに等しい。昔は、この映画の昭和という時代は近所の人とのつながりがあった。誰かしら目をかけたり声をかけ合ったり。今はそういう共同体が無いので、その代わりの公共の施設やサービス、というコトになる。
あとともちゃんも、たしかに彼の友達とは遊べなかったりして悲しい思いもしただろうけど、おばあちゃんを通して学べるコトがあったはずで、ソレは彼にとってとても貴重な時間だったと思う。つづく