『ぼくのおばあちゃん』を観て。
昨日は、20日までなのかな?一応チェックはしたんだけど、20日までなら昨日しか観るチャンスがなかったので、テアトル新宿にて放映中の榊英雄監督第2作目『ぼくのおばあちゃん』を観に行った。この作品は、世界最長寿の女優としてギネスに認定されてる菅井きんさんがおばあちゃん役というコトもあって、ケッコーご存知の方もいらっしゃるかと。日テレできんさんとか主演の岡本健一氏とか宣伝してたし、そゆのも見かけた方もいるでしょう。監督は言わずとしれた、いずみさんの旦那さんでもある。映画の音楽はいずみさんが担当してる。
スジはネタばれになるのであまり言わないけど、「家」「家族」「おばあちゃん」「父親」「子供」「人生」「人の生き死に」、、いろんな言葉が思い浮かぶ。たぶん観る人の立場によって違う感想を抱くと思う。
ワタクシはこの作品で描かれてるような「おばあちゃん像」というのは、おばあちゃんが身近にはいなかったからあいにく無いのだけど、一般的なおばあちゃん像てこういうモノだろうな、とは思う。何でも自分の言うコトを否定せず肯定して、何でも受け入れて優しい愛情で包んでくれる存在。
今は核家族化が進んでるからなかなかこういう存在の人がいない。何かの本に書いてあったけど、家族というのは父親母親だけではホントは足りないのだ。昔の大家族みたいにおじいちゃんおばあちゃんという、上のお年寄り世代と共に1つ屋根の下暮らすコトによって、おじいちゃんおばあちゃん世代の知識とか経験の豊富さやお年寄り世代を尊敬する心を育むコトが、実感としてできる。面々と続く生命の連鎖を肌で感じるコトができるのだ。そういうコトを核家族という構成では頭では分かってても、身体で実感として学べない。
ソレと子供にしてみれば父親母親に対しての「逃げ道」でもある。父親母親というのはどうしても直接の親だから愛情の行き過ぎが生じる。そういう時におじいちゃんおばあちゃんというのは、一歩引いた目線で孫を家族を見守るコトができるのだと思う。ソレはおじいちゃんおばあちゃんがかつて同じ道を辿ってきた経験から、だとも言える。一歩引いて、執着していないから孫の良いトコロをとにかく褒める。親というのはえてして自分の子供の悪いトコロに目が行きがちで否定しがちだけど、おじいちゃんおばあちゃんというのは見方が肯定的だ。だから子供は「信用してくれてる」という感情をおじいちゃんおばあちゃんに持つ。
子供てのは良いトコロをとにかく伸ばす方がいいんだろうね。そうすると短所の部分がどんどん良いトコロにかき消されてくんじゃないかな?割合的に、気になんないほどにね。やがて短所が短所でなくなってくんだと思うよ。短所は気にしない方がいい。おばあちゃんとともちゃんの関係を観たらそう思ったね。
お父さんお母さんもおばあちゃんおじいちゃんがいるコトで相談ができる。みんなの安全弁となって、家族がうまく機能するというのがある。コレが父親母親子供という構成だと、うまくお母さんなりがガス抜き役になっていられるうちはいいのだけど、お母さんの負担が大きくなるとも言えるし、ガス抜きがうまく出来ずに三すくみになる可能性もある。
「家」というのは実際の建物そのモノより、お父さんお母さん子供おじいちゃんおばあちゃんという家族1人1人が「家」を形作るんだと思う。
ワタクシは主人公のともちゃんとおばあちゃんを「1つの命の流れ」として見てみた。人というのは幼い時は与えられ、大人になって大きくなったら与える側になる。与えられる幸せと与える幸せ。幸せにはその歳その歳で感じられる幸せがあるのだな、と思った。ソレらは思い出になる。「時が過ぎ去っていくのは悲しいコトではない」とおばあちゃんは言う。時は過ぎ去るけど思い出はいつまでも残る。生きていれば思い出が増えてく。思い出があるから幸せだ、とたぶんそういうコトなんだと思う。その歳その歳で味わえる幸せがあるのだから、与えられた人生は生ききらないともったいないんだな、と思った。つづく