赤毛のアン。
ああー、終わっちゃったなぁー赤毛のアン。放送がある時は何気に楽しみにしてたんだが。コレもタイミング・縁なのかね?前のバイトが終わった→昼間にやってるコレを観る、てのは「誰か」に見せられてる。なんか意味があるんだろうねーとか思ったり。途中からなんだけどさ。
アニメ『赤毛のアン』て1979年の作品なのね。当時観てたけど、ストーリーなんてまるで記憶に残っちゃいなかったしなぁー。ただアンが妄想癖な女の子ていうだけしか覚えてなくて。しかし歳食った今あらためて観ると、こういう話だったんだぁ、いい作品だよなぁていう。今の子に見せてあげたいというか、こういうのって無いよね最近。衛星なんかでやってないで地上波でやりゃいいのにねて感じ。
時代的には今から100年前くらいで、舞台はカナダなのかな?イギリスとかアイルランド(当時は独立してねぇーのか??)、とにかくあっちの方から移り住んで。リトルイタリーとか、アメリカの方はそういう移民の人ばっかりだから。プリンス・エドワード島て言うんだよね。その島がカナダ領なのかな?ソコのアボンリーの、グリーンゲイブルズの、、てなってくと。だから家とか見てると、アンの家は白&緑のアーリーアメリカンて感じなんだけどさ、ダイアナの家は黄色&白&緑のアイルランドカラーだったりする。まぁアメリカて国はそういう具合に、いろんな国の人たちの持ち寄った文化が基盤にあるんだな。
ちなみにカタコトカフェはこのアイルランドカラーだったりするんだけど(だからといってアイルランド料理を出すとかそういうのではなく)。もっと細かいコト言うと「先にアイリッシュカラーありき」じゃなくて、「先にイメージありき」なんだよな。ただ単にこの黄色&白&緑の組み合せが好きというだけで。で、いろんな本やTVの情報が頭に入ってくるうちに「あー、コレはひょっとしたらアイルランドの家の色なのかな?」というのがおぼろげに分かってきたという具合で、で結局この赤毛のアンでハッキリした、というコトなんだけど。
アンの家みたいな色もいいんだよな。知ってる人は知ってると思うけど、松涛(しょうとうの「とう」がムズかしい字だから表示できないけど)にあるフレッシュネスバーガー1号店の色。だからあそこも、古き良き時代のアメリカをイメージソースにしてるんだろうな。もちろんあの建物は好きだし、あのお店自体もこじんまりして牧歌的な感じがしていい。
しかも当時日曜7時半ていう、この時間帯のアニメ作品は日本アニメーションだっけ?今のスタジオジブリの高畑勲氏とか関わってたりするんだよね、エンディングのスタッフロール見てると。そういうのを知った目で見るとまた違うんだな。絵の描写とか「なるほどなぁー」と思ったり。とにかく自然の描写が素晴らしい。観ながら頭ん中でよりリアルに想像してみると「うわぁー」てなる。自然の荘厳さとか色鮮やかさとか。この作品にとって自然の描写てすごく大事な部分だと思う。
アンがまだ子供の頃は、そういう今ソコにある自然の華やかさとか物質的なモノ・コトを起点として、自分の想像を膨らませたり、アンいわく「ロマン」に思いを馳せてたけど、アンが成長して大人に近づき、いろんな災難がアンの身に降りかかるようになるにつれ、アンのそのいわゆる妄想癖を今度は自分の未来のために使うようになる。アンが名づけた小道や小川が、今度は自分のコレからの人生上に現われるようになる。
よく「絶望がないと希望は無い」とか「絶望を経験していないと、希望は想起できない」なんてこのごろ目にするんだけど、最後の五話ぐらいを見て「こういうコトかな」と思った。アンが頑張りに頑張って手にしたエドモンド大学の奨学金。アンには輝かしい未来が待ってる。コレから人生上り調子。しかしもともと心臓に持病があったマシュウは、財産を預けておいたアベイ銀行の破綻を新聞で知り、ショックを受けあの世へ行ってしまう。アンの良き理解者だったマシュウの死。ただひょっとしたら彼の役割というモノは充分に果たせたのカモしれない。マリラがアンを理解し、アンの存在を「自分の喜び」だと、マシュウと同じ気持ちになったから。そんなマリラにも不幸が訪れる。目の病。昔なら緑内とか白内は失明につながる病気なんだろうね。その病の進行を知ったマリラは、コレから自分が生きてく財産の確保と自分が友人の家に身を寄せるため、グリーンゲイブルズ(家)を売り払おうとする。
アラン夫人の言葉が沁みたなぁ。人生というのは割りきれないコトもある。その「割りきれなさ」というのはたぶん人の「死」というコトだよね。人には寿命がある。自然の摂理。コレはどうにもならない。残された人は、その割りきれなさにココロを残して今日を明日を生きてくしかない。自分だけ幸せになっていいのだろうかという罪悪感。ソレを感じながら生きるしかない、と。そう言われると、もともとあるモノなんだからしょうがない、という気になるよね。人生上り坂があれば下り坂もある。去り行く者がいれば残される者もいる。さだめというか。ちょっと気が楽になる。
でも結局、アンは奨学金を辞退して教職につく。教職について働き、マリラと共に暮らすコトを選ぶ。人生ていうのはその時にならないと分からないね。ソコまで行かないと見えない分かれ道てあるな。自分が進むはずだった道を進まず曲がり道へ入る。ただアンは自らの意思でソレを選んだ。ソコには自分が想像していなかった未知の世界が待っている。ソコには小道や小川が待っているカモしれない。オープニング曲につながってくるんだよな。あの歌が象徴してる。「つれていくのね」て。アンは絶望の淵に叩き落されたその地点から、希望という光を見出したワケだな。こういう点を見るとやっぱ女の人て強いよなぁーて思うよ(笑)。男はこうはいかないよ。おろおろしちゃう、絶対。でもアンにとって妄想癖てのは生きるための術になったんだよな。どんだけ勉強して頭良くなっても、ソレに助けられたワケだから。アンが曲がり道に出くわしたというのも何かの縁なのカモね。ソレによってギルバートと仲直りもできたワケだし。
そもそも元を正せば、孤児院にアンしかいなかったといってマシュウが引き取ったコトもそう言えるし。もしマシュウがいなかったら、マリラだけだったならマリラはあの時点で即刻アンを突っ返しただろう。マシュウのアンを引き取ってきた行為が、マリラの良心に訴えるモノがあったと。そう考えるとソレも入るべき・曲がるべき道、だったのカモしれないし、縁であったと言える。「縁」という字は「いとへん」。全てが見えない糸でつながっていた、というコトだな。