EARTH HEART
ワタクシは自分の思いや考えを言葉に変換するという行為がどーも信用ならない、という感じが強かった。ソレは思いや考えを的確に言い表せないというボキャブラリー不足、というコトもあるがどこまで行っても100%は「言葉」に変換はできない、必ずソコには脱落しているモノが出てくるのだろう、と思っていた。今でこそ歳も取り、こんな駄文を書いてるので少しは言語変換能力もついたが、まだ100%は的確に言えてないと思う。
20代のいわゆる「自分探し」をしている時期、橘いずみさんの『自分』という曲を聴いていたら突然、「自分はもろい」という天啓を受けた。『自分』は「自分」というモノにこだわるのはやめにしよう、やめにしたいけどやめるコトができないのも自分、という詩なんだが、その詩がきっかけとなって、今までガチガチに考え、深みにはまって煮詰まっていた「自分」というモノていうのは、実際はすぐに周りに影響されるではないか、「自分」なんてもろいモノだ、「自分」なんて探すほど高尚なモノなのか?と思い、縛られていた鎖が解けた。
なんであの時、「自分はもろい」と思ったのか。ひらめきはしたがずっと理由は解らないでいた。『自分』の詩とは実はまったく関係ない。ただきっかけ、ひきがねではあったが。でもその思いは「正解」だとは思っていた。
言葉というのは記憶だと思う。人によって言葉に対する意味が微妙に違う。ソレは人の生き方・環境・背景が違うからだ。ただこーやって会話は成立はしているが、100%ではない。100%伝わってないというのはそーいうコトだ。むしろ言葉とはそーいうモノなのだ、と考えた方がラクだと思った。ソレはネットをやり始めてから、こーいった「文字」でしか表現できないという制約で感じたコトだ。ソレを見事に言い当てたのがデリダだとワタクシは思っている。言葉なんて、所詮人間が作り出したモノに過ぎない。「もろい」人間、完ぺきではない人間という生き物が作り出したモノなのだから。
ワタクシは「人生は思いこみと反省の繰り返し」であると前に書いた。思いこみが間違っても反省して学ぶから、人間は向上していくんだと思う。
最近ある本を読んで、コレらの思いが全部つながった。筋がピシッと1本通ったのだ。