「表現するコト」について。
ワタクシには表現者の中でも特にお金をもらってたりするプロの表現者は評価を受けるべきだという持論がある。
ワタクシが言う「表現」というのはモノスゴい範囲が広い。極論この世に生まれるコトイコールもうソレは表現。そういう行為をしてる、というコトになる。存在=表現活動なのだ。ステージに立つ人たちだけではなく、お店で接客をしたり料理をつくったり何かモノを作ったり。とにかく世に問うてる人・何かを投げかけてる人ひっくるめて、全て表現者だと思ってる。
ただ生きてるだけで他人になんやかんや言われる思われる。人というのは直感でも第一印象でも思いこみでもとにかく評価をする。ソレがたとえ正しくなくても、だ。他人のそういった思いこみを正しくないと、間違いだよと他人の思いこみに対してはそう思ってるのにも関わらず、自分の直感は正しい、直感というのは正しいモノなんだというのはおかしくないだろうか。ソレは盲信だと言えよう。
思ってた印象と違うという人ているでしょ。たしかにある面、直感は正しいと言えるけどソレはある一面に過ぎなかったという。その一面もその人の一部ではあるけど全部ではないというね。
直感には「正しい直感・正しくない直感」があると思う。思考にバイアスがかかってれば直感は正しくなくなる。人は思いこむ。思いこみというバイアスがかかる。その思いこみをいったん頭からハズしてニュートラルな視点でどうか。その状態で感じればソレは正しい直感だと言えよう。バイアスがかかってたらその直感は歪んでる。カラダがおかしかったり(変調をきたしてたり)しても直感は鈍る。冴えない。だから何でもかんでも「全て直感が正しい」とは限らない。
で、直感については置いといて評価について。とくに人目にさらされる立場にいる表現者。人間だからヤなコトは聞きたくない。ワタクシだって褒められて伸びるタイプだから(笑)ヤなコトはできれば聞きたくない。だけど、いいいいばかりのYESマンばかりだったらコレはどうだろう?わざわざ人目にさらされる意味があるのだろうか?ソレはいずれ「裸の王様状態」になりやしないか?耳に心地良いコトばかり聞いてももしょうがないと思う。いろんな人がいるのだから、いろんな意見を聞いた方が得じゃないだろうか。自分がどう見られてるか、どう評価されてるかの参考になる。
人が表現すれば、ソコには必ず賛否両論はある。否定や批判はたしかに耳がいたい。ソレは正しくない・間違ってると思うコトもあるだろう。でも否定意見や批判を聞かないなら人目にさらされる立場にいる意味が無いのでは?イコール表現する意味が無いのでは?ソレなら自己満足でアマチュアで、趣味の範囲で表現活動すればよろし。プロとして、お金を人からもらってるならなおさらだ。表現をするなら否定意見はあるモノだ、という前提に立たなければならない。自分が向上していこう・成長しようと思えば他人の評価はとりあえず聞く耳は持つべきだと思う。むしろそういった批判意見を「何とかしてやろう」とするコトが醍醐味だったりその職に携わる者の心意気とは言えないだろうか。ソレがプライドによるモノでもいいとは思うけど。次は覆してやろうとソレを楽しむ心の余裕。
ワタクシは特別に誰かを個人攻撃してるワケではない。このコトは以前からずーっと考えてたコトだから。勘違いしてる人がたしかにいるなぁーという思い。自分への戒めのためにも書いている。
何のために自分は表現するのか?そのコトを常に自分に問うてみた方がいい。ソレが「生活のため」だけなら、淋し過ぎやしないか?ソレなら何も人の前に出たりしなくてもいいじゃないか。ソレ以上の何かを得たいからだろう?お金のために生きるのではないだろう?生きるためにお金が必要なのだろう?自分が向上したいから表現するのだろう?ソコをよく考えた方がいいと思う。