スノオレ。
面接で面接官の質問に対して、流暢にスムーズに、ときには少しユーモアなんかもスパイス的にパラパラと散りばめつつ答える学生、というのがいる。ワタクシなんかにはまずできない芸当なんだけども、今の学生さんらはこういう芸当が大体できるのだろう。聞かれたら即答える。そういうのは技術というより訓練なんだとワタクシは思う。「アレは訓練なんだなぁ〜」と思った。別に否定するワケではない。ただ単純に、ワタクシにはできない芸当だから「すげぇなー」と素直に思う。
ただできないから言うワケでもないんだけど、訓練を経てみんなそういうよどみの無い答えをかえして、その中で果たして「目立つコト」てできるのかしら?とも思う。みんなおしなべてうまく答える。そつなく無難に答える。さらに自己アピールなんかもコレまた流暢にしゃべるワケなんだけども、よっぽどのインパクトがなければ結局は面接官の印象には残らないんじゃないだろうか。そう思ってしまった。おしなべて、よどみなく、スマートに、ときおりユーモアを交え、ソコソコの自己アピールで、みんな埋没してしまう。そんなふうにはならないのだろうか。
そして結局はみんな「演じてる」のではないだろうか。何かしらの、面接向けの「仮面」をつけ「よろい」をつけ面接に臨んでる。自分をアピールする場であるはずなのに、自分をガチガチに守ってる。オープンの場で閉鎖的。まぁ日本人がそういうのヘタだと言えばソレまでだけど。
本来なら「素の自分」「素の俺」で対峙するべきじゃないんだろうか。もちろんその場のマナーというか、常識であり、謙虚さとか相手を敬うとか相手に失礼の無いようにとかそういう気持ちは持ちつつ。でもできるだけ普段の自分というか自然体の自分を見てもらうというのが、お互いにとっていいのではないだろうか、とも思う。
結局「演じてる」から『何者』みたいな本が生まれるのではないだろうか(読んだコトないけど、想像で:笑)個の埋没。しかもソレすら通らない。何十回と断られる。普段のオレとズレが生じてるから分裂的な病が生じる。おそらくソレは学生らはみんな解ってる。でもやらざるをえない。
少なくとも、ワタクシみたいに「できない人」のほうが「素のオレ」「このままの自分」で精一杯体当たりするしかないので、ズレもあまり生じない。
面接で100点を目指そうとするから苦しくなる。目指すのは別に構わないけど、結果的に51点だっていいじゃない、と。たしかに言いよどんでへんな間ができちゃって悪目立ちしたけど、、とかいろいろ反省点はあるにしても、まー半分よりは1点プラスというコトで、オレ的には精一杯やったよ。ソレでいいんじゃないだろうか。そのへんの誠意とか誠実とかが伝わって、受け取ってくれた相手のほうが、結果的には良いんだと思うよ。将来的にもね。
ワタクシは面接する側になったコトはないから、ホントのトコロは分からない。でも面接する側からすれば「仮面」とか「よろい」とか「着飾ってるオレ」を別に見たいワケではないとたぶん思う。「よろい」は「よわい」でもあるし「もろい」でもあると思う。いくら着飾っていようが、その奥に見え隠れする人柄とか人間性、こいつといっしょに仕事できるか、より具体的に言うなら、今の仕事の取引先とかお客さんとかに失礼がないだろうか、一所懸命仕事やってくれそうか、そういう今たとえば面接官がしてる自分の仕事やおつき合いしてる人たちに当てはめてみてこの人はどうだろう、というのを頭の中で想像してるのではないだろうか。実績とか経験があればソレはプラスになるのカモしれないけど、ソレらがなければ信用はゼロなのだから、一所懸命とか誠実とかそういうトコロでアピールするしかないんじゃないだろうか。逆から言えば、面接する側はそういうトコロを信じるしかないワケだ。
別に「仮面」や「よろい」を付けてても、そのへんが相手に伝わればソレはソレで構わないカモしれない。だから否定はしない。でもワタクシはせいぜいが「ひのきのぼう」と「ぬののふく」というドラクエ的最低装備でぶち当たるしか能がない。マルハダカだと失礼なのでマルハダカよりは着てるという(笑)。