極限に咲く花。
昨夜TVをつけてたら、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)というもっとも厳しい修行をされた僧侶のかたと探検家が対談をしてて、僧侶さんのお話につい聞き入ってしまった。
千日回峰行というのは、1000日の間、往復48kmを休むコトなく毎日ひたすら歩くという苦行なんだそうだ。48kmていうフルマラソンよりちょっと距離長いぐらいだけど、きれいに舗装されたトコロを歩くワケでもなく、険しい、道ともいえない山の中を毎日登り、駆け下る。1日ではない、毎日だ。千日の間毎日というのだから、雨が降ろうが嵐になろうが酷暑だろうが、たとえ体調が悪くても毎日やらなければならない。もし途中でやめるようなコトがあれば、ソレは即「死」を意味する。そのために縄(首をくくるための縄)と切腹するための帯刀を持ち歩いて行う。
僧侶のかたのお話によると、この修行中に、死ぬんじゃないか、死ぬカモしれない、という時があったそうだ。なぜそうまでして自分の体に苦行を強いるのかというと、ソコまで自分の体を追い込んで、死の淵まで行かなければ見るコトのできない花があるという。極限に咲く花だ。
たぶんソレは、その死の淵からこちらの普段の、何でもない世界や人、というのが「花」に思えるんじゃないだろうか。ひいては「いのち」であり、「今生きてる」ソレ自体が、「生きてる」というコトが「花」。自分が精神的にも肉体的にも追い込まれ、最も死というモノに近づいたときには、もう自分がどうとかはどうでもよくなるんじゃないだろうか。ソレが結局は自分への執着を捨て去るコトになり、死への恐怖もなくなるコトにつながる。ただ「生きてる」コトが素晴らしい。命を燃やして精一杯生きるコトの素晴らしさ。そういうコトなんじゃないかと、ワタクシはお話を聞きながら思った。
ココまでの苦行をしいらなくても、普段でもワタクシたちはちょっと風邪ひいて熱が出たり、お腹こわしてトイレにこもったりしてる時に、普段の何でもない自分や生活が素晴らしいなと思える時てある。自分が弱くなってる時、とくにそういうコトを思う。でもそう思ったとしても、風邪が治って、また体調が戻ったりして普段の生活に送るうちに、そういうコトは忘れてしまう。その中にいると普通の、何でもないというコトへのありがたさを忘れてしまう。
でも、コレだとまだ自分内で終っちゃってる。あくまで自分ゴトだ。僧侶さんは、たぶん自分の信じる教えというのがベースにあるからだと思うんだけど、死の淵で得たコト、見た「花」というモノを自分内で終らせずに、その自分の立ってる大地や自分の生きている世界、そしてその自分と同時間に生きている人たち、すべてのいのち、そういうモノにまで押しひろげている。
自然を相手にしてる、畑で働いてるおばあちゃんやおじいちゃんの強さが素晴らしいとか。普通の、普段の生活を送っている、何でもない人たちの素晴らしさ。コレはともすれば自分以外が素晴らしい、という「下から目線」にもなりそうだけど、そういった自虐的な目線でもなく、すべてが平等、というコトなんだと思う。ソレこそおけらだってあめんぼだって、だ。そういう優しい目線、慈しみの目線を、「花」を見るコトで得られる。慈悲といっても「上から目線」でもない。たぶん皆と同じ大地に立ちながら、同時に俯瞰的にもモノゴトを視れる。心配りをするコト、想うコトでそういう目線が獲得できる。そういうコトなんだと思う。
僧侶さんが苦行をするのは、自分たちが生と死の境目、極限を経験するコトによって、ソコで見たモノや得た気づきを、一般のワタクシたちに伝えるという、ソレが仕事だというコトのようだ。普通の人たちがみんなそういう修行をできるワケもない。この番組に出た僧侶さんのようなかたがワタクシたちの代わりにやってくださってる。「花を見てくる」という役割を担っている。そして見てきたコト、得たコトをワタクシたちに伝えるのが僧侶さんの仕事。使命とも言えるカモしれない。
いっぽう、探検家の人というのは、あくまで自分の追及だ。自分の想像力であり好奇心であり可能性の追求。修行と探検、冒険は似てると言ってたけど、たしかに場面場面、そのときどきでは似てるトコロもあるんだろうけど、かたや使命であり、かたや快楽の追求。この点でまったく別のモノだとも言える。
ワタクシたちの何でもない人生、というのもある意味修行、なのカモしれない。普段の生活の中で、死の淵、極限を目指し、ソコから見るコトのできる「花」がある、というコトなのだろうか。ワタクシたちは普段を生きるコトによって何を得るのだろうか。「何かを得る」というコトは、ワタクシたちが普段「何かを忘れてしまってるコトがある」、とも言えそうだ。
または、すでにこの何でもない世界が「死の淵」「極限」とも言えるカモしれない。あらゆるいのちのひとつひとつが、常に死ととなり合わせの、この極限の世界に咲く花なのだ。