「執着しない」について。
なんでかな?んーまだ思いついたばかりで、うまく言えないんだけど、なんかこの世じゃないあの世とかさ、たとえばいくつかの宗教とかもそうだろうけど、「執着しない」て言うじゃん。そういう教えていうの?アレはなんでなんだろね?「執着しなさい」ていう教えは聞いたコトがない。
「執着しない」ていうのは、なんか「ふわっ」としたイメージなんだよ。ふわふわっとね。反対に「執着する」てのはがっちりしがみついてるというか力が入ってる、そんなイメージ。
13日のブログの最後に「ズームインばかりしてないで、もうちょっとズームアウト、「引き」で見てみなさいよ」と書いた。ソレてようは局所的に集中して見るばかりじゃなく、もうちょっと引いて全体的に俯瞰で見てみなさいよ、ていうコトを言いたかったんだけど、人てどうしてもじーっと集中してしまいがちだと思うんだよ。視点的にもそうだけど、精神的に入り込み過ぎるとかさ。ほっとけばつい集中しがちだから、わざわざ「執着しなさい」という教えも無いのか。ソレは「この世ならでは」なのかな?と思ったんだけど。この世が特殊というか、むしろこの世以外の、まーあの世としとくと「集中しない」「執着しない」という方がスタンダードなのカモしれないなと。
もちろん集中するというのも悪い面ばかりじゃないけど、集中すると力が入りすぎて身体が緊張したりとかさ、そうなると自分の本来の実力が出し切れないとか、あるよね。だからリラックスしなさい、と言う。
「集中する」ていうのは「意識する」てコトだから、この世では「集中する」と「リラックスする」の間をうまく行き来するというか、場に応じてコントロールできる、てのが「奥義」な気がするな。
たぶんあの世では「意識」てのが無いんだろう。分かんないけどね。とすれば、ソレは意識を集中しようがないワケだから、リラックスばっかりになるだろうね。
この世に生体を留めてるのは、ある意味この世に集中してるというか「意識」してるてコトなんじゃないかな。この世に留まる最低限の意識、集中、執着、=アイドリングみたいなモンだ。というか、意識が遠のく意識がなくなる=死、というコトだから、そのアイドリングが無くなる=死てワケだ。あの世に行くと、その集中から意識から離れる=つなぎとめるモノが無くなる=リラックス、ふわっとしてるイメージ。
生体がもはや生体としての形を留めてなく、ホログラムのようにときどきぼんやりと見えたり、現れては消えたりするのを、ワタクシたちの言葉で「幽霊」と言う。まだこの世に意識が残ってるから、ワタクシたちに見えるというコトか。完全にこの世に意識が残ってないのだとしたら、ワタクシたちには見えない。