あーココでもやってるぅ〜。
3日のような符合というのは起こる時は大抵連続して起こるモノで、次の日(4日)に木曜発売の週刊チャンピオンを読んでたら、毎週見てる範馬刃牙(はんまばき。略:バキ)の内容がピクル戦も終わり1回休みみたいな内容で、「恋愛対象ではなく愛してる」とか「失恋か、いや闘いすらしていない」とか「子供には恋をしないでしょ」みたいなセリフが飛び交い、作者が言う愛の定義みたいなコトが描かれてた。
そして夜いずみさんのブログをのぞいたらタイトルの「あーココでもやってるぅ〜」。愛とはなんだろう?というお悩みメールがいずみさんに届いたらしい。だからワタクシはコンビニで日中読んだバキから拝借してコメントを(笑)。質問の前にすでに答えを先取り、みたいな符合。
ちょっと話は前回のに戻るけど、昨日フト思ったのは、寝てる時に見る夢てのも仕組みは似てるのカモしれない。夢てどっぷり熟睡だと見ないでしょ。ワタクシはそうなんだけど。深い眠りの時は。でも例えば深い眠りの時の数値を5とするじゃん。そうすると3〜1ぐらいの眠りのレベルの時に夢を見やすい、ワタクシはね。少し覚醒気味というか意識が入りこんでるというか。そういう半覚醒状態だと、脳のスイッチがONになって起きてる時の記憶(もちろん今現在のコトだけではなく過去のコトも)がごちゃごちゃ混ぜこぜになってどっと雪崩れ込んできて、強引にありもしない設定とお話がでっちあげられる。で「コレは夢だろ?」なんて思うと急速に目が覚めるワケだけど、その「起きてる時の記憶が流れこんでる状態」てのも自分の意識というストッパー(リミッター)が最小の状態で、自分の中でソレらをせきとめるモノがないから蓄えられていた記憶・情報が溢れる。コレもようはノイズがなくするっと届いた、何の障害もなく情報ソースに接続したから、なんじゃないかと。意識の介在が極小だから、溢れ出た情報はカオス(混沌)状態で、ソレを脳がムリヤリストーリーに仕立てたという感じ。
意識というのはリミッターなのだから(ワタクシはそう思ってる。ネガティブな意味ではなく「生命維持のため」という意味もある。脳てそういうための臓器だと思うし。)、意識する・執着するというのはやっぱりノイズになるんじゃないかな。もちろんソレが良い悪いではなくてね、その各自ご判断というコトで。
こう考えるとやっぱ「眠る」てのは「死」に近い行為なんじゃないかなー、なんて思う。死に近づくにつれて妨げるモノが少なくなる。よく死ぬ間際にいろんなコトを走馬灯のように思い起こすと言うけれど、アレなんかまさにリミッターが外れて時系列も関係なく記憶がダダモレになってる、という感じなのでは。
魂の想うコトは良いコトも悪いコトも全て想い通りに叶うのではないだろうか。たぶんあの世というのはそういうトコロなのだ。時間という概念も無い、想うコト全てが叶う場所。ただ「想うコト全て」と「あらゆるコト全て」は違う。「想うコト全てはあくまで自分が想うコトの「範囲内」なのだから、自分に想像の限界値を伸ばすため、新しい何かを学ぶために自分の決めた場所に生まれる。だから人が人としてこの世に生まれてくるコトも自分が「そう決めた」コトなのカモしれない。『バシャール』にはそう書いてるけど、なんとなく分かる気もする。学ぼうと想って学びにくる、遊びにくる。
逆にこの世にフィードバックするなら、直感というのは魂が想ってるコトが何の妨げも無くするっと意識野に届いたというコトなのだから(ひらめきもコレに同じ)、ソレは疑うコトなく従った方が良く、すぐにソレを行動に移した方が良いというコトなのだろう。余計な左脳的な考えが思い浮かぶ前に即行動。