平和でありますように。
今年も『火垂るの墓』が放送された。もういい加減見もしないけど。この時期、毎年恒例。この作品はたぶん、この先もずっと毎年恒例夏の風物詩。
今は核家族が主で、じいちゃんばあちゃんがいる家は少数派だろう。家族というのは社会なので、大家族ほど他者という存在を学ぶコトができる。じいちゃんばあちゃんがいるとお年寄りを敬うという意味が実感として分かる。たしかにじいちゃんばあちゃんら自身の生きてる時間はスローになったカモしれないけど、彼らは人生の先輩であって、ワタクシたちが知らないコトを知ってる。人生経験が豊富だ。ソレは財産である。ソコから学ぶコトは多い。そういう人が身近にいる人は幸せだ。
今の人たちが昔に比べて年配者を敬う気持ちが希薄なのは、自分たちの知らないコトを知ってる年配者が近くにいないから、というのも一因にあるとワタクシは思う。大家族だと年功序列、敬うという意識と上下関係を養える。今の時代はソレが無いから、親は子供に対して、子供も親に対して、お互いに友達感覚で接するようになる。親子関係がそういう関係だと「家族=社会」というコトから、社会に対しても友達感覚を求めるようになる。先生も友達感覚だし、ヘタしたら会社の上司も友達感覚だ。「年配者はえらい」というのが分からない、というのもコレではムリもない。
ワタクシたちの足下には先祖代々、過去の人たちがこの世に生まれては死に、ワタクシたちはその一番上に現在立っている。過去の人たちにもソレゾレの人生があったにちがいない。そういった人たちの犠牲や思いの上にワタクシたちは立ってる。この不景気でありながらも、とりあえずは何もなく平和な日々をワタクシたちは享受してる。この「何でもない日々」は過去の人たちの上に成り立っている。現在を生きるワタクシたちは彼らの希望なのである。未来が平和な世の中であってほしい、未来の私たちの家族が平和で幸せに暮らせますように、という祈りにも似た一筋の強い念が時空を超えて現在のワタクシたちを支えている。
ワタクシたちは自分で生きている、と思ってて実は生かされてるのカモしれない。支えられて生かされてると思えば「自分で生きている」なんてなんとまぁー利己的な考え!おこがましい!とも思ってしまうけど、ソレでもソレはソレとして、与えられた生をありがたく受けつつまっとうする。できれば次の世代に受け継いで、自分も先人と同じように次の世代を支えてく。平和でありますように、と。