『バンブー」と『SWIMMER』。
最近の脳内音楽はたむらぱんの『バンブー』(といっても一番の一部しか知らない)ばっかりぐるぐる流れてるのだけど、雑誌の「ダヴィンチ」に『バンブー』の販促記事(ていうの?)がチラっとあったので読んだ。たむらぱんによると『バンブー』の歌詞の主人公は「勤め人」だそうで、時間時間でカッチリ決まってる生活でも自分よくやってるよなぁ〜!ていう、そういう強い意志を持った自分をもっと褒めてあげてもいいんじゃない?ていう歌とのコト。たしかにそういう見方もあるよな。そういう時もあるよたしかに。うまく乗りこなしてるというか、そう思う時が。
かわっていずみさんの最近の新曲で『SWIMMER』というのがある。前にも書いたけどたぶんこの歌は、歌手という顔を持ち、日々の子育てに追われるお母さんであるいずみさん自身を歌詞にした歌だとワタクシは解釈してるのだけど、『バンブー』と『SWIMMER』を同じ土俵に並べて思うのは、かたや時間に「追われてる」のではなく自分で「乗りこなしてる」と感じてる。かたやなんとなく後手後手に回って、日々追われてるという感じが歌詞から伝わってくる。子育てというのは人というアナログな存在を相手にするモノでソレは時間で決まっていない。容赦がない。でもそんな暮らしの中でも荒波に飲まれるコトなく自分で泳いで行こう!という意気込みのような歌だ。「泳げてる自分」と「泳ぎたい!と思ってる自分」の歌、と言い替えるコトもできるかな。
2つの曲には「時間で決まってるか決まってないか」という前提の違いはあるけど、ようは「乗りこなしてると思うか、流されてると感じるか」。「自分主導かそうでないか」とも言えるかな。流されてると感じれば果ては「真空パック症」に行きつく。両者は表裏の関係、紙一重であって、スイッチのONOFFなのカモしれない。
ワタクシはどちらの価値観も楽しめる。どちらの歌も楽しんで聴いてる。
でも流されるのもタマにはいいんだよな。自分で泳ぎつかれたなら流れに身を任せる時があっていいと思うし。流れ着いた先に思わぬ出会いとか出来事が待ってるカモしれないし、そういうハプニングも楽しい。ようはその選択が「自分の意思によるモノか、そうでないのか」てコトだな。ソレによって快・不快の目盛りの針の振れが変わってくる。
でも自分で選んだからといって万事うまくいくワケでもないし、流されても結果オーライというコトもあるし、ブツブツ、、、。ま、臨機応変に(笑)。もちろん結論なんか出るワケなし。どっちもOK!てコトだもん。