あきらめた人たちとあきらめない人たち。
再々放送か再々々放送ぐらいの『SEED』終了。
ワタクシにとってガンダムSEEDというのは、カガリの「それで本当に平和になるのかよぉぉー!!」であり、アークエンジェルのキャビンを今にも攻撃しようとジンが銃口を向けてビームを放たんとすアークエンジェル絶体絶命という刹那上空からフリーダムが迎撃!チャン、チャンチャチャンてミーティアが流れる、ぐわぁ〜っシビれる!!ていうその2シーンが見れればオオカタ満足、SEEDは終わり!という気分、あとはおまけで余興という感じなんだけども、最終話を見てSEEDてこういう話だったのかと何回目かにしてやっっと分かった。最終話でフレイとクルーゼが対比的されて描かれてたような気がして、言いたいコトが分かったのだ。
結局クルーゼは可哀相な人なんだなー。自分の生、命に対してハナからコンプレックスがあるワケだな。自分はできそこないだ、ナニモノでもないという念が根底を流れてて、だからこそというか逆説的に自分を誰よりも高みに置く。他人を信じようとしない。断絶。孤立・孤独。自分は選ばれた存在だとするコトで自分のアイデンティティをなんとか保とうとする。自分の存在理由とする。物覚えついた時からのモノゴトに対する見方、人に対する見方が「信じない」てトコロから始まっているような。愛情の欠落とかそういうコトなのカモしれない。人を信じるコトをとっくにあきらめてる人だ。
パトリック議長もナチュラルを根絶やしにしようとした人だから、分かり合おうというコトを拒む、人を信じるコトをすでにあきらめたしまった人だ。
一方、キラとキラの仲間たちというのは、初めは敵だったり反対側の立場にいた人たちがお互いをぶつけ合いお互いを理解した。キラのまわりにいる人たちというのはホトンドそういう人たちである。初めは理解できるか分からないモノ同士、考え方が相容れない同士が傷つき合いながらも、最後はお互いを受け容れ分かり合えた。そういうココロの底からの、魂のぶつかり合いを経て分かり合えたという経験がたしかな実感としてあり、現にそうしたぶつかり合いを経てできたた仲間たちがまわりにいるから、人を信じるコトをあきらめない、信じ続けようとしている。
ガンダムというのはホトンドこの構図である。アムロに対してシャアもそうだし、最新作のガンダムユニコーンもたしか「人類の可能性を信じる」というような話。
フレイはキラに対する自分の感情が強すぎて、ココロが「クルーゼ寄り」になってしまったのだな。だから実際にクルーゼのソバに居るコトになってしまったのだけど、最終的にはクルーゼにフレイは利用されただけ、というコトになってしまった。人を信じてないから、クルーゼは。フレイがクルーゼに対して若干の怯えがあったのも分かる気がする。ワケのわからぬ人物というだけでなく、わたしはあんたみたいな人になりたくない、という心理がフレイにあったんじゃないかと思う。わたしはあんたとはちがう、わたしは人を信じたい、孤立なんかしたくない、と。フレイにとってクルーゼは死神みたいなモノだったにちがいない。
内心はフレイもキラを許してただろうし理解もしてただろうし、むしろ感謝の念ぐらいあったのカモしれないけど、キラを許す自分を認めたくなかったのだろうし、そういった自分への苛立ちもあり葛藤してたのだろう。キラもフレイの気持ちが十分解ってる。2人は本心では分かり合えてた。ただフレイの感情がソレをさえぎった。でも生きてるといろんなコトがジャマをする。戦うべきモノは目の前の敵ではなく、自分のこういう感情なのだな、とラクスはそう言いたかったはずなのだ。
生きていれば相手を傷つけ自分が傷つくコトもあるけど、傷つけるそのコト自体を目的にしてはならない。その先の「理解し合う」「分かり合える」という希望があるから、時にその過程で人は傷つけ合いもする。ソレは哀しいけど避けられないカモしれない。傷つけるコトが目的ではなくその先の「分かり合える」という希望をキラから感じたから、キラのまわりに人が集まったのだ。時として本音と本音をぶつけ合うコトも、お互いが分かり合うために必要なコトだ。
ガンダムでは「MSを用いた戦争」という形をとってるけど、武力を用いなくても可能なはずだ。武力というのは結局は力づく。決して相手を理解して、というコトではない、安直なやり方だ。相手を理解しようというトコロからしか平和は生まれない。全ての人と分かり合えるとは思えない。けれども傷つくコト傷つけるコトを恐れずじっくり焦らずあきらめず信じつづける。いつか分かり合えるだろう、という淡い希望があるから人は生きられるのだ。