び〜ひあなう。
8/27に橘いずみさんのワンマンがあるのだが、そのライブタイトルは「ここにいる ここにある」という。まさに文字通り「LIVE」にふさわしいタイトルである。ワタクシはこのタイトルについて(ホントはライブ観てから書こうと思ってたのだが)、まず「ここにいる」自分という存在。現在進行形で今を生きている自分。そして「ここにある」というのは、過去・現在・未来全部を含めたあらゆる事柄を持っている自分、という解釈をした。今という現在進行形を生きながら、過去の記憶、そして未来の自分という潜在するであろう可能性も今の自分は持っている、というコトである。
しばしば「今を生きる」という言葉を聞くが、その言葉には必ず「過去」がセットでくっ付いてくる、そんな使われ方をしている。よく学校の先生が生徒たちに向かって「今という時は今しかないんだから、今を一所懸命に生きなさい」という具合に。今を生きてる時点では分からない。振りかえってみて初めて出てくる言葉、そんな感じだ。表面的に分かったとしても実感としては無い。
ソレは年齢ではない。60の人が諭すように言ったとしても、80才の人から見れば「まだまだ」と言うカモしれない。そんな80の人を100才の人が見たら「まだまだ」と言うのカモしれない。
生きる意味を追うのには意味がある、と思う。というかそもそも生きる意味自体はそこに「ある」ワケではなく、自分で創るのだ。生きる意味は自分で探すモノだ。ソレが生きていく価値である。
ただソレに「今を」という修飾が付くと、そのコトの意味を考えるのに果たして意味があるのか?と思う。ワタクシが言うのはノスタルジィ&フィードバックを含む「今を生きる」じゃなく、文字通りの意味だ。というのはこーやってる時点ですでに過去になってしまう。光より速く過ぎ去って行く(実際は違うが)。ほんの点でしかないコトに果たして意味付ける必要があるのか、と思ってしまう。ソレが解って何になるのであろうか?というのが今時点での考えだ。追求する価値があるのか。ソレをフィードバック&フィードフォワードする意味があるのか?
今というのに意味はない。生きるコト自体に意味は無いのと同じように。もし「今を生きる」に定義を付けるなら、それは不変のモノではない。年齢で違い、各々人ソレゾレで違うと思う。
遠くを見て運転しなさい、と教習所で言われる。人は自分が見る方向に進む。しかしソレばかりでは足下の石ころにつまづくので、足下も見ながら前を見ながら。人生のヒントや答えはひょっとしたらこんな日常に存在しているのカモしれない。過去と未来を線でつなげて初めて「今」という時が輝き出す。未来に夢や生きる希望が無ければ、生きる気力が湧かない。今をどう過ごしていいのか分からないはずだ。
つま先立ちで目一杯手を伸ばしてみても、ホントにソコにあるモノかどうかも分からないそんなモノを、そんなコトを知ろうとしても、例え表面的に、言葉上知ったとしてもソレはホントの意味で「知った」コトにはならない。
悔いを残さないように、と言うけれど実際はムズかしい。その時そー思ったとしてもあとで「あの時こーいう風にもできたはずだ」など時間が経ってやっと気付くコトもある。ソレは「悔い」と言うのか。ソレはその時にならないと分からないコトだ。
「今を生きる」には定義は無い、があえて言うのならば「その時その時での最善を尽くす」というコト。コレが解答の1つではあるのカモしれない。この言葉に置きかえてみるべきだな、と思う。
♪BGM:永遠のパズル 橘いずみ