最近よく目にする「物語」という言葉について。
なんか最近雑誌なんかでも「物語」て言葉をやたら目にするんだけど、解釈としては「ファンタジー」とか「虚構」とかでいいのかしら?「安っぽい感動ドラマ」という意味もありそうだけど。「共同幻想」が適切か。
まーワタクシはプロレス好きなので「いまさら感」がありますけどね、この言葉。なんでいまさらこんな言葉がフューチャーされるんだろうか?てな具合で。まぁあまりに目に付くからなんでしょうかね。最近の例でいうと女子フィギュアの浅田選手のソチ五輪でのSP16位→フリー6位入賞なんてのも「物語」らしいですよ。日本人はああいうの好きね、てコトなのかしら。
ワタクシは『スモールハウス』『Bライフ』の著者である毎年寝太郎さんのブログを楽しく拝見しているんだけども、昨日とか今日のブログを読んでると、どうも寝太郎さんはそういった「物語」を受けつけられないみたいで、嘘を感じてしまうという。たしかにソレも分かる。透けてしまうんだろうな。コレも最近なんだけど、何日か前?の名越先生のツイートで「虚無をごまかすため」と書いてあったのを読んで、寝太郎さんの書いてるコトと一致するなと、そう思ったですよ。
ワタクシなんかはある種プロレスで鍛えられてるので(笑)、後付けでコレはこういう流れなんだろうなとか、もっと基本的なコトを言えば、ロープからレスラーがはねかえるのは、、ていういわゆるよくあるプロレス話に、いくらでも理由がつけられるワケですよ。プロレスはリアルファイトかファンタジーか?だから「遊び」なんだよね。「遊び」だし、あえて「乗っかってる」ワケだ、そのプロレスという「お題」に。その方がオモロイよというコトでね。
『スモールハウス』から入って『Bライフ』、そしてブログと寝太郎さんのライフスタイル(ていう言い方が正しいかどうか分からないけど)に興味を持って、ある意味うらやましいなぁーと思ってたけど、寝太郎さんは寝太郎さんで生きづらさを感じてるんだろうな。まぁだからああいう生活を求めるワケでソレを実践してるんだけども。うらやましいばかりじゃないんだなーと思った次第で。寝太郎さんにとっては嘘を感じてしまうから息苦しい。だから死活問題なんだろうね。
どっちがいいのかね?名越先生の言うトコロの「虚無をごまかせる」方が生きてくのがラクなのか。「物語」に乗っかってく方が自分で考えなくて済むからラクなのか。ソレともそういうモノを遠ざけて、自分で手探りでも「自分の生活」を実践していった方がいいのか。手探りだからシンプルにはいかないよ。自分で切り開いていくワケだから。ある意味「レール」「物語」に乗っかってった方が自分で考えなくていいから、自分は「物語」「レール」をチョイスするだけだから、自分の思考的にはシンプルちゃあシンプルだよね。
既製品の服を自分が着て十分満足なのと、一から自分でオリジナルで服を作って着るのと。そもそも服なんかいらない、てのもあるし。他人の運転するクルマに乗るんじゃなくて、自分で運転したい、ともいえる。そもそも寝太郎さんの「セルフビルドの小屋」そのものが、寝太郎さん自身の考えを体現してるとも言える。
ごまかせる人は幸せだとも言えるし、ごまかせない人は不幸だとも言えそうだし。
仕事するというのもそうだと思うんだよな。今世の中にある仕事の中で、自分が好きそうな、興味がありそうな、自分に合う仕事が見つかればソレは幸せなコトだとも言えそうだけど、どうもどの仕事も興味湧かないししっくりこないという人も中にはいるだろうし、そういう人はもう自分で起業するか、あるいは全く仕事しないか(自給自足で食べていくとか)、しかない。自分を世の中に合わすコトができない。自分をごまかせないんだよな。そういう人は今確実にいると思うよ。コレは生きづらい。
宗教てのも、ソコにはもちろん真理もあるだろうけど「物語」も多分に含んでると思うんだよな。うさんくささ感じる話がたくさんあるだろう。でもソレを信じるコトによって救われる人もいるワケだよね。ソレは事実であって。「物語」を信じてるおかげで救われる人もいれば、「物語」が拠り所になって逆に救う側に回るコトもある。ある意味「防衛本能」的な意味合いもあるのカモしれないよね。「共感」とかそういうコトだから。だからある程度は必要なのカモしれない。でも程度によるんだろうね。ソレを信じ過ぎると、とか原理主義みたいにその「物語」が主になって主従逆転するようなコトになるとあまりよろしくないよと、ソレは言えるカモしれない。
コレは善い悪いでもなく、正しい正しくないのハナシでもない。結論は出ないね。