涙目セプテンバー。
まぁワタクシもそんなに入れ込んで観てるワケでもないのけど、さすがに先週金・土曜の『あまちゃん』は録画してまでチェックして(てケッコー入れ込んでる??:笑)。コレからそのコトについて書くので、観てない人はさぁーと流してくだされ。
金・土曜の『あまちゃん』は、太巻・鈴鹿ひろ美・春子のもつれた三角関係の糸がするするする〜とほどけるような話でありやした。
太巻には鈴鹿ひろ美のシャドウに春子を使いソレを隠していた鈴鹿への罪悪感があり、鈴鹿ひろ美には春子が芸能界で活躍できるはずだった未来を奪ってしまった罪悪感があり、春子には太巻への復讐の怨念があり。ソレらがアキを介するコトで全ての過去が清算され、春子はついに「よかった」とまで言えるようになった。春子の中で止まってた時計が進み、今という現在地にようやく立てるようになった。そういう話です。
もし「芸能界で活躍」コースを歩んだとしても、たしかにソレはソレで、その人生の中で出会えた人たちや出会えた出来事があったにちがいないとは思う。けど結局は「芸能界で活躍できない」コースを、半ば強制的に歩まされたワケだけども、その人生の中でも出会えた人たちや出来事がいっぱいあって、そっちを歩いてきたからこそ、パパに出会ってアキちゃんという娘が生まれた。もし芸能界で活躍してた人生だったらアキとは出会えてなかったカモしれない。そういう嬉しくて幸せなコトもなかったカモしれない。
春子さんに限らず、アキちゃんもそうだしユイちゃんもそうだ。アキちゃんは自分が当初は望んではなかった芸能界で活躍でき、ユイちゃんは芸能界へ進む道をあきらめた。人生にはいくつも別れ道があって、そのうちのどれかを選んだとしても、選んだ「その後の時間」があって、ソコでは良いコトにも悪いコトにも出会うワケだ。どれを選んだとしても、時間は容赦なく進み、選んだその瞬間から、もう「その後の人生」は始まってる。ソコをどう生きるかはあなた次第、自分次第。ソレが、脚本のクドカン氏の『あまちゃん』を通して言いたかったメッセージなんじゃないだろうか。
明日からとうとう『あまちゃん』にも現実が介入する。今までののほほんとして明るく元気でノンキで、朝の(人によってはお昼の)一服の清涼剤的な『あまちゃん』では、おそらくなくなるだろう。よって今までの明るく元気な『あまちゃん』が好きだった人は、先週の金・土でおしまいというコトにして、今後は観ない方がいいのカモしれない。明日からはどうしたってシリアスモードで、たとえアキちゃんが笑っても、その笑顔の意味合いがまるで変わってきてしまうだろうから。
春子さんのような今後の人生を変えてしまうような出来事、またはカタストロフ、そういうようなコトがあっても、その後も生きてくなら、生き残ってるとしたら、時間は容赦なく進み、今後出会う人もいれば離れる人もいる。そういう人生を歩む。その人生にどういう意味を与えるか。春子さんのように「よかった」と言えるようになれるのか。ソレがこのドラマの、今を生きる人たちへのエール、なのだと思う。