いまさらながら、、。
TVで「フォレストガンプ」をやっていたので観た。映画館で観た時は、自由気ままに生きる人生ていいなぁ、、みたいなイメージしかなかったんだけど、実は全く逆なのね。
だってフォレストは自分が積極的に行動して、というコトではなく人生の中で出会った人がキーポイントとなって、自分の行動(とりあえずやるコト)が決定されてる。ホトンド自分の意思決定は無い。実際はあんな風にうまくコトが転がっていくワケないけど、そのウマイ転がり方というのは、フォレストが流されて行動してるから呼びこめてる、もしくはフォレストの人柄によって呼びこんでいる、と映画を観る人は思って「いいなぁ」となる。もしかしたらこんな生き方もありえるのカモしれない、と思わされる。現実はあのまんまというのはムリだけど、人と出会うコトで自分の人生の流れが変る、というコトはある。映画はそーいうコトを誇張して描いている。
流される、ていうのはぐずで、弱い、ネガなイメージで捕らえられるけど、あそこまで流れに身を任せられるその人本人は本当に強い、と思う。普通はムリでしょー。絶対自分の意思や欲が入りこんでしまう。
フォレストが純真無垢すぎて居たたまれなかったのカモしれない。無意識にジェラシーもあったのカモしれない。幼なじみのジェニーは家の事情や、フォレストの存在が邪魔でソレとは反対の、自分の意見や選択を積極的に選び、自分を取り巻くあらゆるコトから抜け出そうと何度も試みる。でも結局流されている自分の弱さにきづく。フォレスト、あなたてなんて強い人なの、と。結局はジェニー自身も自分で選んでいたようで、実は選んでなかったのカモしれない。「自分で選択」は錯覚カモしれないのだ。実は流され流されたフォレストとなんら変わりないのカモしれない。じゃあ2人の何が違ったかというと、ジェニーには人生の起点に「怨み」があった。ソレがベースの様々な選択であり、出会いであり。だからジェニーは「わたし、まちがってた」と言ったのだ。怨みがベースの歪んだ己で呼びこんだ数々の出来事か、まっさらな己自身で呼びこんだ出来事か。似たモノ同士はくっついてきますから。