橘いずみさん②
「十字架とコイン」は橘いずみの二面性、というより多面性が見える。楽曲がバラエティに富んで、彼女のいろいろな顔が垣間見れるのだ。威勢良くイキがってみたり、そのウラでホロっと弱さを見せたり、自分を自虐的に笑い飛ばしてみたり。そんなセキララのムキダシで自分をさらけ出している姿を、ワタクシは「カッコいい」と思ってしまった。今でもこのスタイルでの表現として、このアルバムは「K点超え」の「最高到達点」だと思ってる。簡単にいえば「カッコ悪い」がカッコいい、とその時は思った。けど最近彼女はやっぱり「スタイリッシュ」を気にしてるんだなとも思い始めた。その「カッコ付け」の部分、女のコがタバコふかしてカッコいいとかそゆ自分がスマートでカッコいい、と思ってるであろう部分を、ワタクシはソレはソレで「ああ可愛いねぇ」とも思う。コレが「父性」というモノなんでしょか。ただ時々鼻に付くコトもあるよね、正直。ソレが彼女の良さ(作品群に反映されてたり。ようはセンスの部分)でもあり悪さでもある。ある意味「アク」ですね、灰汁。表現者には必要だからね。
まぁこの辺のクダリは極私的感想なのでヨクワカンナクていいが、この「十字架とコイン」以降この先どーすんだろ!?と思ったね。もーこーなったらこのハリツメ感を和らげる、解放する方向に行くしかないでしょーと思ってたら、やっぱその方向に行って「そーするしかないよねぇ」とウンウン頷いてました。
よく彼女と尾崎豊は比較される。プロデューサーもいっしょで、尾崎豊とタイプ的には似た「激情型」で亡き尾崎豊を受けつぐ者としての認識が強いと思う。ワタクシは尾崎豊は聴いてない。あえて避けてた、とも言える。ワタクシは彼の慟哭を「弱い」と思ってた。今でも彼の弱さについて言及してる著名人も雑誌なんかみたりするといたりするが、ワタクシは今は「彼はピュアすぎたんだな」と思う。ピュア過ぎて、社会・世の中に裏切られる度に傷つき、その傷の痛みを抑えきれずに歌を歌う。そして悪いのは社会や世の中なのではなくそう思ってる自分が悪いのだ、と痛感してるから自分をせめる。外に対して、内に対して。彼は張り詰めた風船をなおも膨らまそうとして逝ってしまった。彼は自己解放を切実に求めながらも、ソレに呼応して比例するかのように緊張し続けた。ソレに比べて彼女はサッと身をひるがえし自らを「解放」してみせた。ココが決定的に違う。尾崎豊は自分を笑い飛ばせなかったが、橘いずみは自分を笑えたのだ。