親愛なる、、、
昨夜、橘いずみさんがご結婚されたコトを彼女のサイトで知った。彼女のサイトのコンテンツ、WEBマガジン『IZUMAGA』内での文章からの発表になるのだが。
旦那さんは、長崎は五島列島出身の方らしい。どうもいずみさんは自然というモノを好む傾向にあると勝手ながら思ってる。かといってエコロジーとかそゆワケじゃなく。もちろん「都市」も好きだろうけど、やや「自然」よりというか。というのは彼女が何故ハーレーにのってるか?というと、ベタな表現だが「風になりたい」「風と一体化できる」とか、そんなコトも含まれると思う。バイクにのってる間は、日常のいろんなコトを全て忘れるコトができるのだろう。彼女のクルマはロードスターだそうだ。オープンを選んでる、というのがもうコレは、如実にそのコトを表してるではないか。都市の刺激からはやっぱり離れられないし、自然の何もない中で暮らしていく自信もない。その土地で生まれ育った者以外にはキビしいコトだと思う。そんな都市人間にとって自然というのは憧れに近く、そんな自然の中で生まれ育った旦那さんの中に、五島列島を見たのカモしれない。そして彼が生まれてから見た風景というモノを見たい、と思ったのカモしれない。
ワタクシたちが一般的に知る『橘いずみ』という人、20代のいずみちゃん(失礼ながら、あえてちゃん付けで)という女のコはなんかものすごく淋しがり屋というか。歌詞やステージング、彼女の歌い方、ソレらが人には衝撃が強すぎて好き嫌い分かれてしまう。でもぺリっと薄皮を向けばソレは自分を鼓舞したり、時には自分を傷つけ、淋しさを紛らわせたり笑って見せて隠したり。そうしないと自分という存在を支えきれなかったんだな、と今は思う。ものすごく愛情というモノに飢えていたんだと思う。空虚な愛情ではなくホントの愛情というモノに。誰にだって形は違えど、多かれ少なかれある気持ち。そんな姿を見て、その部分が共鳴を起こし、突き動かされたのだと思う。
橘いずみの歌を知る者の中に、ソレゾレの『橘いずみ』がいる。そのソレゾレの自分の中にいるいずみちゃんが結婚したのだから、ソレはみんな嬉しいはずだ。彼女の、昔からの曲を聴いてる人は「この人には幸せになってほしい」「この人を幸せにしてくれる人が現れてほしい」と思ってたと思う。そんな人が、やっと心を預けるコトのできる人に出会えて、本当にうれしい。
10年前の自分というのを思い出してみても、ともすればおぼろげにしか思い出せない。意外とそーいうモノよ。人は忘れる。細胞て3年で全部入れ替わるんだってさ。歳をとれば脳細胞も死んでいく。風化していく。寂しい。でもワタクシは橘いずみの歌を聴くたびに、あの頃の自分を思い出す。あの時の自分はどういうコトを考えていたかが思い出される。
愛てそういうコトなんじゃないか、と思う。その時の記憶や思い出をそっくりそのまま閉じ込めておける。封じ込めておける。誰かの心の中に。歌に。ソレは色褪せない。風化しない。永遠である。
結婚てなんだろ?ていずみさんも書いてた。ワタクシもこーいう機会でもないと考えない。でも1つだけ言えるのはいずみさんも書いてたよに、結婚という制度があるから「いつまでも離れない仲むつまじいおじいちゃんおばあちゃん」という人間の形があるんだと思う。おじいちゃんおばあちゃんの、彼らが若かりし時代というのは、たぶんほぼ見合い結婚で、結婚式当日に初めてお互いの顔を見た、なんて話も聞く。今じゃ信じられない。ソレほど今という時代は自由になったのだ。彼らの時代は今みたいに気軽に(気軽ではないだろうけど)離婚だとか持っての他だったろうし、世間体というモノを考え、家族に迷惑のかからないように、名に傷をつけないように、ある意味忍んで暮らしていた、そんな時代だと思う。たしかにつらい日々もあったと思うし、できるコトなら別れたいという人もいたカモしれない。でも自由じゃなく制約があったからこそ今の形が成り立ってるんだと思う。理想を言えば、制約なんか一切無くてなおそゆ形になれるならいいんだと思うけど、人は何かしら制約が無いとダメな部分もある。愛て制約があったりすると余計に燃え上がったりするじゃない、みたいな。あんまり自由すぎると散漫になるんだ。
忍耐とか我慢とか、そんなコトもこーいうふうになるには必要なんだろうな、と思う。でも相手に対して自分の思うようにならない、とか願いを求めすぎるよりも、相手をそのままぽこん、と自分の心の中に置くコトが愛情だと思う。人を認めなくたって、ムリヤリ好きにならなくたって、嫌いなら嫌いでいい。ただ相手の良いところも悪いところも全部そのまま、受け入れるのではなく置いておくだけでいい。肯定はしないけど、否定する理由もない。自然だって、この星だって、我々人間という存在をそのままぽこん、と置いておいてくれてる。地球だって人間に対して「別にアンタたち好きじゃないけど、居てもいいよ」と思ってくれてるにちがいない。だって我々人間も自然物だもの。
自然て時にはつらくキビシイ。でも優しさや温もりもある。ソレは同じ自然物な「人」も同様。キビシかったりつらかったり、コレはムダだーなんてコトも全て「今」のために必要なコト。ソレらがあるから今、その地点に立っていられる。そしてコレからのために必要なコトでもある。だからどれ1つとしてムダなコトなんてない。
信用・信頼の「信」て字はニンベンに言う、という言葉だけどコレはまだ、言葉が必要なレベルでの関係でしかない、と思う。信頼がいずれ絆という、言葉もいらない「糸」になる。人と人がよりあわせて糸を紡いでいく。言葉を交わさなくても、触れ合わなくても、遠く離れてても心の手をつないでる。例えその人を失っても。
旦那さんと同じ景色を見て、同じ時間をコレから過ごせたらなぁ、と思ったんだろうなぁ。彼の島の人たちはみんな喜んでるだろうね。なんか砂浜で手をつないでバンザイして空を見上げてる2人、というのをイメージした。満面の笑顔で。風を感じるよ、その映像から。
本当におめでとう。末永くお幸せに、、。