橘いずみさん③〜自分探しの果てに見つけたモノ〜
ソレは彼女が「女性」だから、というのは確実にあると思う。やっぱ男は弱くて女はタフだと思うねぇ。
今、尾崎豊トリビュートアルバム「blue」の3曲目「路上のルール」を彼女もカバーしてるが、時を経て今だから歌えてこーやって世に出せる、というのはあるよね。尾崎豊から続いて彼女のファンになった人とかはやっぱり重ねて見てしまうと思う。ワタクシはソレはヤなコトなんじゃないカナ、重荷なんじゃないカナ、と思っていたが、どーやらソレは違うみたいで「光栄だ」と。自分と尾崎豊が違うのを一番わかってんだよな。でまた昔のよなアグレッシブな、青臭い疾走感に満ちた歌い方を「路上のルール」でしてるんだが、アレを望んでたファンも多かっただろし、橘いずみが尾崎豊を歌ったら、、というのを切望してたファンも居たコトだろう。
尾崎豊との話はコレくらいにして話をもどすが、「十字架とコイン」の後に出た「ごらん、あれがオリオン座だよ」収録の「自分」という曲に出てくる
愛がすべてを救ってゆくのなら 君はどうして自分捨てられない
という歌詞がイマイチ理解できなかった。ワカラナカッタ。ある日、いつもの会社の帰り道の短い上り坂で閃いた。「自分なんてモロいものなんだ」。自分なんて「探す」ほど高尚なモノではないんだ、と思った。そー思った途端今まで張り詰めてた頭が急にガスが抜けるよに緩んで和らいだ。自分なんて他人の一言でいくらでも動いてしまう。輝いたモノを見せられれば簡単に影響されてしまう。とてつもなく膨張してデカくなってた「自分」という虚像(巨像)が急に等身大の自分になって見えてきた。じゃあ自分には今、なんにもないけど、この何にもないながらもあるだけのモノをかき集めて、何かしよう。何の才能もないんだから、できるだけ持ってるモノを活かそう、ムダにしないようにしよう、と思った。
今だから言えるコトがある。自分は捨てちゃいけない。自分が満たされて余裕があるから人を助けられる、のではなく自分も満たされてないながらも人を助けるコトによって、自分も共に助けられていく。人は相手の中にある「己」を認め、ある種尊敬の念を相手に持つコトで信頼関係が結ばれるのだ。自分を捨てたら単なるマリオネットだ。「自分」がある人はしっかり大地に足を伸ばして立ってる。前述した「自分」という壁があるからこそソレを乗り越えようとするのが生きがいとなり、充実した人生になる。