ハピネス 10巻(最終巻)/押見修造
「ハピネス」10巻、発売しました。これにて完結です。 pic.twitter.com/nuwd4zLo2P
— 押見修造 (@shuzo_oshimi) May 9, 2019
最終話は、かつてノラが暮らしてた村に儀式があって、洞窟に身を潜めている神(吸血鬼)に生贄を与えなければいけないという取引が昔あったのだろう。そのおかげで村が襲われずに済んでいる。だからノラも残された村の人のために洞窟へ向かい吸血鬼になった。ノラには相思相愛の思い人がいた。それから何百年の時を経て、いつものように闇に隠れて背後から首筋めがけて噛み付いたとき、その少年の顔がかつての思い人の顔そっくりだった。まるで生まれ変わりのようだった。本当に生まれ変わりなのかもしれない。生きていれば、やなことばかりだけれど、たまにこういった良いことがある。そして五所さんがかつて失った彼女の弟の顔に、岡崎がそっくりだった。こうして点と点が線になっていく。運命がつながっていく、、。
先に連載のほうは終了してるんだけど、やっとマガポケのほうでも最終話が公開されたので、感想を書くことにしました。
最終話を読んでしばらく経った今この作品に思うことというのは、大枠は意外にもいわゆる妖怪モノというか水木しげる漫画に出てくるような妖怪ものの範疇からはみ出てはいないんだな、ということ。
いわゆる妖怪とかモノノケというのは、たとえば母親が子供をしつけるときに「○○しないと、××(妖怪やおばけ)に食べられちゃうよぉー」とか「出てくるよぉー」と言って子供を脅かすときに都合の良いもの便利なものとして使われる。というか昔はよく用いられた(今はどうか知らないが)。
今回のこの『ハピネス』という作品も、この作品内に生きるいわゆる普通の人たちには全く知らない出来事である。吸血鬼のノラや岡崎は闇に隠れて、世間から身を潜めながら生きている。でもなぜ隠れながら潜めながら生きなければならないかというと、それは吸血鬼である自分たちが「怖い生き物」というよりは、逆に「人間のほうが怖い生き物」として作品では描かれている。押見漫画は「人間のほうがよっぽど怖い」という作品が多い。その「『人間』という生き物の底知れなさ」を怖いもの見たさで覗き見る、というのが押見作品の正しい見方だと思う。
この作品最大の悪であり悲劇である桜根や、ノラや岡崎や勇樹、サクなど吸血鬼になった者を捕らえようとする人もいるが、この作品のヒロインである五所さんや後に彼女の伴侶となる後藤のように、彼ら吸血鬼を理解しようとする人たちもいる。
五所さんは吸血鬼となった岡崎に「いっしょに暮らそう」と彼女の思いを伝えるが、岡崎は拒否する。それが吸血鬼の岡崎と人間である五所さんの、お互いの世界を脅かさず幸せに生きていくために岡崎が選んだ考えであり術であり、吸血鬼として生きていく岡崎の覚悟であり、ノラへの思いである。
人間はいつか死ぬ。この世からいなくなってしまうが、吸血鬼は死なない。死ねない。この世に存在し続けなければならない。ある意味生き地獄だ。生き地獄であるこの世を、ノラと2人なら生き続けていけると岡崎は思ったのではないだろうか。そして2人で、自分たちの前を通り過ぎていく者たちの命を見守っていこう、とそういうふうに自分たちの生き方であり、存在意義を定義したのではないだろうか。その心持ちであり境地というのは、もう神様のそれと同じではないだろうか。
わたくしは読んでて、何か人間の業というか闇とか、そういった陰の部分をすべてノラや岡崎が請け負って、背負ってるような気になった。彼らがいるから、人間である五所さんや彼女のまわりの人間が幸せに生きていられる、そういう受け取り方をした。まるで十字架を背負ったキリストだ。誰かの犠牲があって、今の世の幸福が成り立っている、と。影があるから光があって、この世は三次元なのである。
非常に無礼で失礼なことなのかもしれないが、ちょうど時期的なこともあって天皇陛下のことも重なった。天皇陛下が慰霊の旅をしたのは、もちろん戦争責任というのもあるだろうけど、それら含めて「あらゆる過去のあやまちはわたしたち(天皇陛下)が請け負うから、国民は今や未来のことを考えてください、目を向けてください」そう「おことば」や行動で繰り返し言われてるような、そんな気もしている。少なくともわたくしにはそう映った。でもときにはわたしたちの姿を見て、この国の人が過去にしてきた過ちを思い出してください、思いを馳せてください、そうも姿や行動で言われている気もするのである。
現実世界に生きているわたくしたちは、普段過去のことなど忘れて生きている。そして忌み嫌うものとして「死」というものがある。そういったものを忘れようと普段は生きているが、ときにはそういった陰に追いやられ葬られている過去や忌避されてる「死」に思いを馳せる、そういうこともしたほうがいいのではないだろうか、と。そういうメッセージをこの作品から感じた。過ぎ去った時間やわたしたちには見えない魂というのは、生きているわたしたちが目にすることができなくなっただけであって、全てがここに在る。在り続け、わたしたちを陰となり見守っている。そういった存在があるから、生が立体的に浮かび上がるのだと、わたくしは思うのである。