さよなら、かつて「私」だったあなたへ。
- 作者: 押見修造
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/06/09
- メディア: コミック
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仲村さんと春日はかつて「同じ」だった。同じだった瞬間がたしかにあった。
春日は仲村さんの中に、まるで映し鏡のように自分を見ていた。同様に、仲村さんも春日の中に自分の姿を見ていた。かつてふたりは1つの魂だった。そんな瞬間が確かにあった。盆踊りの日、仲村さんは春日を突き飛ばした。「ひとりで行く」と言い残して、彼女は春日の前から消えた。
ワタクシは、仲村さんはたしかにふたりが同じだったという実感と、けれどやっぱりちがうという思いもあって、春日を突き飛ばしたのではないかと思っている。
春日には、本という支えと佐伯さんという女の子がある時期支えだった(支えを春日は「依存」と表現しているが。生きるよすがだ)。仲村さんには支えが何もなかったと思われる。彼女には自分を理解してくれる人やモノが何も無かった。ソレは親でさえも。彼女自身がそうした状況に身を置いていたわけだけれども、春日という存在が仲村さんにとっては唯一の希望の光でもあった。だから春日は自分とはちがう、空っぽではないという思いもあり、そして仲村さん自身が今まで生きてきた証として、わたしという存在を見てくれて、解ろうとしてくれて、つきあってくれてありがとう、という意味合いも込めて春日を突き飛ばしたのではないだろうか。この人には生きていて欲しいと。
「ありがとう」「生きていて欲しい(うれしい)」はこの最終巻にも出てくる。再会した仲村さんに春日が言うセリフとして。「生きていてくれるだけでうれしい」と仲村さんに春日は言う。春日にとって仲村さんという存在は、思春期の象徴だった。春日も仲村さんに無くなって欲しくなかったのだ。
けれど、お互いもうあの頃の自分とはちがう。春日は仲村さんを心に思いながらも、なんとか日々を生きてきた。仲村さんは仲村さんで、あれほど憎んできた繰り返す日々を、終わりなき日常を、今は「キレイ」と言う。あれほどこの町を抜け出して向こう側に行きたいと願った彼女が、陽が昇って陽が沈むそのなんでもない当たり前の光景を「キレイ」と。そして仲村さんは春日に言う。「二度とくんなよ、ふつうにんげん」。これからの日々をまたふたりはソレゾレ歩む。そのためにふたりはお互いにさよならを告げる。過去の輝いた想い出にさよならを告げる。これから歩くために。最後の「ありがとう」は、あえてベタの中にセリフが描いてあるのみだったが、あのありがとうはふたりの気持ちだったんじゃないだろうか。
春日はその後、常盤さんと結婚し子供ができ家庭を持つようになる。そしてやっと客観的に見つめられるようになったであろうあの日々のコトを、原稿用紙に書き連ねる。
仲村さんはきっと、毎日あの海に習慣のように来て、春日との日々を思いながら昇り沈む太陽を見つめてるのではないだろうか。母と、そして後に父も加わって、日々を淡々と過ごすのではないだろうか。おそらく結婚はしないだろう。死ぬまでひとりかもしれない。でもあの頃の「ひとり」と意味合いがまったくちがう。春日と過ごした日々が胸の中に、昇り沈む太陽の中にあるから、彼女は幸せに生きていけるのではないだろうか。
誰でもコトの大小の差はあれ、仲村さんや春日のように思い悩む時期が人生にはある。でもそういった葛藤の日々が過去にあったから、今を生きていけるというのは確実にある。思い悩んで葛藤して、七転八倒した日々があればこそ、その先楽に生きていける。荒療治だけれども通過儀礼のようなモノなのだ。この作品は作者が裏表紙に書いてるように、今現在思春期真っ只中、またはかつて思春期を過ごした人たちに読んでほしい作品だと、ワタクシも思う。
思春期の人たちは、是非おおいにのたうち回ってほしい。そのときそのときの時期に、人生においてやっといたほうがいいコトは確実にある。死ぬときにやっとけばよかった、と後悔しないように。