能力は公共のモノ。
ワタクシが常日頃思ってるけどうまく言葉にできてないコトを、内田せんせいがツイートされてたのでココに引用させていただきます。
『「特技」というのは、その技を持っていない人たちのために使うから意味があるわけです。目のいい人は遠くを見て「陸が見えたぞ!」って仲間に知らせ、鼻のいい人は「何かが燃えてるぞ」と仲間に知らせて火事を防ぎ、力のある人は道を塞いでいる巨石を「ほいよ」と持ち上げて通れるようにする。』
『だから、英語ができる人たちは、英語が苦手な人たちのために特技を発揮すべきじゃないんですか?そのための特技でしょ?』
内田せんせいは「特技」とされてるけど、ワタクシは「個人の能力」とか「その人の存在そのもの」だと考えてた。みんなソレゾレでちがうワケでさ。たとえばパラメーターで個々のさまざまな能力を数値化したならば、みんな数値バラバラだと思うんだよ。ソレこそ「普通の人」なんていない。「普通」て何?何を基準に「普通」なの??ていう。「平均の人」なら表現として分かるけどね。文字通り能力には個人差があるワケで、あるコトが得意な人もいれば苦手な人もいる。能力が高い人もいれば低い人もいる。
最近というかケッコー以前からなんだけど、能力の高い人が能力の低い人に合わせて怠ける、ラクをしてるてのが目に付くというか、そんな気がしてならないんだよな。「あーこのくらい手を抜いていいんだ」「怠けていいんだ」みたいな。「わざと鈍くする」ていうね。
例えば今の歩きスマホだってそうだよ。歩きながら「私は今スマホに夢中なので、あなたの方が避けてください」みたいな無言のアピール。自分のセンサー感度をワザと鈍くしてるていうかね、そういうコトを日常生活において感じるコトがよくある。横断歩道でもおかまいなしだからね、歩きスマホ。クルマ飛び込んできたらどーすんだろ?横断歩道だから安全、じゃないんだよ。車道を歩くんだからね。
まー他にもいろいろあると思うんだけど、今思いつくのはソレくらい。
何が言いたいかというと、得意な人器用な人てのは、自分のハードルを下げて、苦手な人に合わせる乗っかるのではなく、苦手な人をフォローするとかさ、補う方向にその能力を使ってほしいよね。ある意味そういう能力て公共のモノであり財産だと思うんだよ。ちょっと宗教めいた言い方すると、天から与えられたギフトだよと。ソレは個人の所有物ではなく、みんなのために使うと。ソレが個人の力が結果的に全体の力につながるコトなんだと思う。