人生にはゴールがある。
今、所さんのニューアルバム『ジャムクラッカー2』に収録されてる『手を振って届いたかな』をたまたま聴いたんだけど、この歌について所さんが「黒澤監督とかもっと生きてるうちに遊びに行ったりお話したりすればよかったな」というコトを語ってた。「もっと行けたのにさ」と。
歳を取ると、人生の先輩に話を聞きたかったりするコトてあると思うんだよね。もちろんアドバイスとかお説教を聞きにいくてのもあるとは思うんだけど、ソレより「その人そのもの」会いに行くというかさ。単に言葉じゃなくて、その人をとりまく空気とか、伝わってくる体温の熱とか、伝わってくる声の振動の心地良さとか。耳がうれしい、みたいなね。そういうモノを体感しに行く、てのかな。五感で味わう。そういうのてあると思うんだよ。所さんが言うのは、そういうのをもっと味わっておきたかった、というコトだとワタクシは思ったんだけど、そういうのて、ねぇ、その人がいなくなったら味わえないじゃない?
だから自分のコトだけじゃないんだよ。「いずれいなくなるだろうから、その逆算の今を」ていうのはね。人間は必ずこの世から去ってく。ソレをどっか頭の片隅にでも置いておいて、時折思い出してみる。普段は引き出しにしまっておいて、何かの機会があるときに引き出しを開けて見てみる。たしかにソレを考えるのはなんだかうすらさびしいし、そのコトに頭が囚われた生き方とか、人生上でのブレーキになってしまうのは本末転倒という感もある。でも全く意識してない人がいたら、その人は脳の1%でも意識しておけばいいんじゃないかな。
こういうマインドに、3・11以降目覚めた人もいると思うんだよ。無常感というか。
「目盛り」があると思うんだよ。人によって「おまえはちょっと足りないから意識しといた方がいいんじゃねぇか?」て人と「おまえはちょっと意識しすぎだから」ていう人とかさ。その度合いは人ソレゾレだと思うんだけど、でも「人生にはゴールがある」とちょっとだけ意識しておけば、この「もっとしておけば、、」ていうのも少しは解消はされると思うんだよな。自分に対してだけじゃなく、他人に対してもね。
完全に「悔やむ」という気持ちが無くなるコトはないだろうけど、でも「あの時アレだけ話したから」とか「アレだけいっしょに遊んだから」とか、そういうコトで自分に納得はできると思うんだな。