「痛い」について。
よく若者がオノレの欲望を表現する人に「痛い」「痛いヤツ」というレッテル?を貼るらしい。でも「痛い」「痛さ」なんていうのはまだモノゴトの序盤戦というか、表現としては始めの方であって、ソコは表現する人は通過儀礼というか通り抜けなきゃならない第一関門みたいなコトだと思う。ようするにそういうふうに言われるのはまだ中途半端なんだよ。オノレの欲望への追求が足りない。ソコを過ぎれば「あーあいつはああいうやつなんだ」と良くも悪くも存在を認められ、前に書いた立石バーガーみたいな独自の世界の住人になるワケで、いずれそういう独自の世界に魅了される人も出てくる。「表現でフリーハンドを得る」てそういうコトだ。人に認められるまで時間がかかる。ソレまでに心が折れるのは、ソコまでのやつというか、大したコトない欲望だ、というコト。突き抜け方が足りん。情熱の熱量が。
そもそも「痛いの王様」みたいな人が現在というか1995年以降かな?世界の頂点に立ったみたいなコトだからね。ビルゲイツて知ってるでしょみんな。ビルゲイツまで行かなくても、日本のITの有名な人だってみなオタクだった。かつてオタクオタクと言われて煙たがれてた人たちが、現在だいたいは時代の最先端を走って、重要な部分を担っている。