表現について。
世間はクリスマスだが、全く関係無いコトを書く。
昨日なんとなくTVのリモコンをポチポチしてたら、浅田真央選手がスケートしてた。お母さんが亡くなられて直後の大会。そういう心境の中でのスケーティングを見守る観客たち。彼女の想いを察するに「お母さん見てて」「見守ってて」という、亡き母に捧げるスケートをしてたのだろう。ソコでふと「ああ、表現ていうのは思いを伝えるためにするのだな」と、文にすると当たり前のコトを改めて思った。
たぶん浅田選手は自分の想いをスケートにのせてお母さんに伝えたかったのだと思う。そう考えると、世の中のいろんな表現方法、歌を歌ったり言葉を話したりという表側の、目に見えてるコトより、その裏側というか奥にこそ真の思いが隠れてるというか、そちらが本質なのではないか、と思ったりもする。
目に見えてる「表現」の部分は「影」であって、本来の「実体」というのがあると思うのだ。その「実体」というのが「思い」だったり、目に見えない何か、なのだと。その目に見えない何かをワタクシたちはこの3次元世界で伝えるために、この3次元世界での手段として、言葉や絵など目に見える形に落とし込んでる。
なので、思いとかイメージとか3次元以外のモノを3次元世界に落とし込む過程で、おそらく抜け落ちてるモノというのもあるのだろうなーとも思う。ワタクシが話すのがヘタなのも、ソコなのだけど。ようするに伝えたいコトが脳内で翻訳するのがヘタなのよ。昔はその翻訳過程で伝えたいコトが十分に言語化できないのがイヤだったけど。ソコの「生きづらさ」が強かったね、昔は。あと思いがそのままダイレクトに伝わればいいけど、ソレを言葉に落とし込んだりするから誤解も生じるんだよな。
まぁソレは置いといて「目に見えてる表現=影」だと考えると、この世のモノというのは「投影されてるモノ」とも言えると思うのね。魂か何か分からないけど何かそういった目に見えない「本質」の表現物、としての「カラダ」だとも。3次元に落とし込んだ形での、この肉体。そうとも言えるんじゃないかと思う。
そう考えると、この世のモノは人間の様々な思いが形となってソコにあるのだなと。そしてソレらは何かを伝えたい、表現したいからあるのであって、ソコにあるモノ自体は投影物に過ぎない、というコトだ。
そうするとこの3次元世界では、いろんな建物であったり目の前にあるPCだったりコーヒーカップだったりが、他の世界ではこういう風に見えてない、例えば単なるエネルギーの塊だとか、の可能性も十分にあり得るのだな。3次元上では「こういう表現」に過ぎない、というコトだ。
コレは余談だけど、だから、ま、3次元化するのは時間がかかるのだよな、きっと。欲しかったモノが1ヵ月後に見つかったりとかさ(笑)。で、案外TVとかネットとかでシンクロしやすいのは、相手がエレキですからね。プラズマとか第4の物質(固体、液体、気体以外の他のモノ)ていうじゃない。そっち側に性質が近いんだよ、おそらく。神社でお願いごとをしたりするのも、あああいうトコロは磁場とかね、そういうのが強いんでしょ。そういうのを介した方が願いが届きやすいのカモしんないね。