過去があるから今がある。石(意思)が積み重なってココにいる。
ムダなコトは1つもない。未来とは「今」の連続である。

へたな鉄砲数打ちゃ当たる。へたでも打たなきゃ当たらない!をモットーとする
かたことの極私的「雑誌系」サイトです。(since 2004 Feb.)

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 やぎ本。⇒本が大好物なやぎのぢぇーむすくん(a.k.aかたこと)がオーガナイザーを務めるやぎの本棚、略して「やぎ本」。本や本にまつわる情報の紹介。神出鬼没でごくまれに登板します。
 ◇最新本◇  今年(といっても2021年だけど、、)読んだ本。後編 

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 Everyday39(エブリデイ・サンキュー)⇒katakoto cafe、やぎ本。につづくかたこと第3の架空のブランド。かたこと流に「毎日が楽しくなる」新たなアイデアを加えたグッズ関係のブランドです。
 ◇最新グッズ◇  『靴箱→ファイルボックスへトランスフォーム!』 

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 祝☆overcoat’s(オーバーコーツ)再結成記念!!  ワタクシが検索しやすくするため(笑)overcoat’sについて書いたブログをまとめて読めるようにしました。ブログタイトル下のカテゴリー「overcoat’s」をクリックしてね~☆
 ◇最新ブログタイトル◇   『Overcoat's(オーバーコーツ)21年ぶりの新アルバム!『9 numbers,Groovy!』を聴いて。♪♪その5♪♪』 

『Luna hut』 〜月見小屋にて〜。

中村好文氏設計『Luna hut』は「月を見るため」専用の小屋。丘にぽつんと建てられた小屋からは、昼間は前に広がる山のなだらかな稜線と草木の緑空の青と白い雲、夜は眼下に広がる街の明かり、見上げれば夜空に輝く満天の星と月。漆黒の闇はモノの境界を曖昧にする。だんだん自分が闇に吸い込まれ、溶けてしまうような錯覚を起こす。その俗世と隔絶した浮遊感覚を楽しむ空間、、。
 
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小さい頃はその吸い込まれ溶けてしまいそうな感じが怖かったから、小屋には近づかなかった。15、6になってこの小屋の良さがなんとなく分かったような気がする。ココにいると俗世と切り離されて、闇に身を預けると、ココロの安穏、ココロの平穏を得られる。夜て怖いモノじゃないんだなぁ、と。
例えば父と娘。娘は年頃で、最近家の敷地内にあるこの小屋によく来るようになった。小さい頃はあんなに怖がって近づかなかったのに、近頃はここにいると妙にココロが落ち着く。何かココロがざわつくコトがあったとき、よくココで夜の街明かりや空の星や月をぼんやり眺めてる。
「、、あいつ、またあの小屋か」「母さん、ちょっと小屋行ってみる」。父親は家から少し離れた小屋に向かう。この小屋に鍵は無く、気が向いたらいつでも入れるようにしている。
「ギギー、、、やっぱりココにいたか」。娘は外の景色を見たままだ。
この空間でなら「父と娘」ではなく「人生における先輩と後輩」のような、家族という枠組みを外した話もできる。ソレは「家」では「家族の父」であるし、娘も「家族の、父親と母親の子供」にならざるをえないからだ。どうしても距離が近すぎる。その「家」から少し離れたこの小屋、そのわずかな距離が「家族」という枠組みを外してくれる大事な距離(時間)になっている。
闇に包まれ、小屋には電気をひいてないので、薄暗い中、お互いの顔もボヤけて見える。ただ横に座り、ともに同じ景色を見つめると、しだいにモノゴトの境界が曖昧になっていき、「家族」という枠組みも消え、ただ1つの「たましい」と「たましい」の会話になっていく。そして娘はココロの平穏を取り戻し、小屋から出た父と娘は家までのわずかな距離を歩きながら「家族」へと戻っていく、、。
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リアルな俗世から一端離れて、迂回してから、またリアルな生活に戻る、その必要性。人によってはソレが公園のベンチであったり、夜の海辺であったり、昔のドラマによく出てくる「屋根の上」であったり、はたまたお気に入りの喫茶店のマスターであったり。そういう「寅さん」的な空間がこのLuna hutともいえる。
2坪しかないんですってよ、このLuna hutは。でもその2坪しかない室内に入ると、まるで無限に広がる宇宙に放り出されたような錯覚におちいるはず。ソレは「茶室的」でもある。ぜいたくな空間じゃないですか?ただ月を見るために作られた小屋なんて。
だからね、モノとかお金じゃなくて「こころの充足」「こころの豊かさ」なんだと思いますよ。コレからの時代、特にね。
お金がどれだけあったって、モノをどれだけ所有したって、かえって「貧乏」だとも言えなくもない。たくさん持ってたら「失いたくない」という気持ちがはたらく=「こころの貧乏性」。
たくさん持っていようがいまいが、ようは自分のこころが充たされてるかどうかでしょう?ワタクシはこのLuna hutでそんなコトを思った。
2つの展示会を通して思ったコトは、小屋づくりにしても会社や仕事にしてもつきつめると「人」。たくさんの「人」が関わってる。
こころがどれだけ豊かか、どれだけ幸せか、ソレが大事だと思う。たぶん被災地の人が仕事をしたかったのは、人のためにはたらくコトで希望とか夢という「未来」を見るコトができるからなんだと思う。忘れられない過去や目の前の現実に押しつぶされずに、前を向いて歩いていくために。自分は生きてるんだから、生きてくためにソレが必要だった。
某企業は「365日24時間働け」というコトを企業理念にしてるらしい。だけどソレで果たして働いてる人たちは「未来」を夢見るコトができるだろうか?人間の尊厳を踏みにじられ、ロボットのような扱われ方をして、ソレで人に接する仕事ができるのだろうか?
自分のこころの栄養であり明日を生きるための燃料になるから仕事をしたい、と思う人もいれば、『スモールハウス』の高村氏のように、別に働こうが働かまいが日々の生活で十分満ち足りてるという人もいる。120%働きたい人もいれば10%でいいという人もいるし。自分が生きるためだけの自給自足な生活でもいい。ようはその人がこころの平穏を得られればいいのだ。いろんな人がいるのだから、働くのがえらいとかえらくないとか、そういう差別的な価値観がブラック企業を正当化させるというか、はびこらせるのだとワタクシは思う。
なぜ一方の極(ワーカホリック、『24時間働け』等)がえらくて、一方の極がえらくないのか。コレは「程度」の問題だ。120%働きたい人は120%働きたい人同士で働けばいいのではないだろうか。365日24時間でも働きたいと考える人は働けばいい。その条件で問題ないと思ってるなら、その人にとってはブラックではないのだから、外野がとやかく言うのは余計なおせっかいになる。その中にソコまでは働きたくないと考える人がいるから、コトがオカシクなってしまうのではないだろうか。いわゆるブラックと言われる企業も、初めからその労働条件を提示すればいいのだ。
何度も言うけど「どちらがえらい」ではない。えらいえらくないという基準自体がオカシイ。その価値観がオカシイ。80%はたらきたいと考える人は、なるべく同じように80%はたらきたい人同士で、ソレ以外の人もソレ以外の人同士で。