moment,memory
昨日の夜、歌手の川村カオリさんが亡くなったのをネットで知り、今朝TVでその訃報を伝えてた。TVを観ながら「ソレにしても若すぎるな、、。若すぎるし、何より娘さんがいてどうするんだろ?」と。
このトコロ、死について考えさせられる機会が多い。でも「死」そのモノよりも、我々の場合は生きているのだからソレ=生について考えるのと同義になる。いや、「死」や「生」というより「生命」「人生」についてカモしれない。
ワタクシは彼女をTVで初めて見た時の印象は、なんだかちょとヤンキーぽいねえちゃんで強気な感じでトガってて、正直苦手なタイプだった。TVの枠内に収まるのがムズかしい人、というイメージ。
その苦手な印象のまましばらく時が過ぎ、彼女が乳がんを患ってるというのをTVで知るコトになり、ソレからは頭のスミッコで少しは気にかかる人になっていた。
訃報を知って今朝TVに映る彼女の顔を見て「ずいぶん柔らかい顔になったな」と思った。病で少しやつれてるような表情ではあったけど。でもソレがガンと闘ってる姿なんだよな。
彼女には娘さんがいて、、思い出したけどガンにかかってガンを切除してからシングルマザーになったていうのを知った時は、「えーっなんで?」と思った。どんだけ甲斐性の無い旦那なんだろうと。もちろんこちらが勝手にそう思ってるだけで、事情は知る由もないのだけど。でもソレらをお互い納得して受け容れて、母子で生きていこうと決めたんだろうから、何とも言えない。
残された娘さんはどうなるのか。たぶん彼女の一番の心配ゴトだろう。でももし娘さんがいなかった人生、というのを考えたら、やっぱりいてくれて良かったと思ってるだろうな。絶対彼女が今まで生きてきた支えになっただろうし。心残りだろうけどね。でも自分の生き様を娘さんに見て欲しかったんじゃないのかな。その姿からいろんなコトを学んで欲しいと。
彼女のライブ映像がTVで流れたんだけど、そのライブで彼女が作ったという歌を唄ってるのを聴いて、いずみさんの『Wonderful Life』を思い出した。「もし私がいなくなってあなたが孤独を感じる時があっても、いつまでも私は側(そば)にいるよ」という内容。子供のいる世のお母さん方はみんな同じような思いを持ってるんじゃないかな、とそう思った。
死んだらこの世界に手を下せない。関われない。たぶん関わっちゃいけないんだろうね。「死んだ自分」が死後の世界に定着できなくなっちゃうのカモしれない。「次元がちがう世界」という言い方が適切かどうか分からないけど(伝わりやすいとは思うけど)、たぶんあまりあの世とこの世を行き来したりこの世に影響を与えるようなコトをしたりすると、自分の存在がどっちつかずで不安定になっちゃうんだと思うんだよね。だからめったなコトでは手出しできないと思うし(手出しするコトがこっち(この世)のためになるとも限らない)、こっちの様子を見守るしかないんだと思う。見守るコトしかできない。
だから今、肉体というモノがあって、手足が満足に動いてるうちに、自分に備わってるモノを思いっきり動かしていろんなモノを触っとけ、というね。触れ合えるのは生きてこそ。死んじゃったら触りたくても触れないんだから。
やっぱりここんトコのワタクシは「エヴァ」濃度が高いので、何でもエヴァを引き合いに出してしまうのだけど、あの作品を観た後で「生きろ!」「生きなさい!」とか他人に言うのは少々気が引けるトコロも正直ある。生きるというのは痛みを伴うのだから。人の人生というのはその人自身が生きるのだから、他人がどうこう口出しできない、という思いも無くはない。でもあの作品の伝えたいコトとして「人間てこういう生き物だけど、ソレでも生きる?どうする?」と。「生きろ!」ではなく「生きる?どうする?」と問いを投げかけてるのカモしれないと、そうも思った。シンジくんはこの世界で生きるという選択をしたけどあなたはどう?と。この先はあなたが考えて決めなさい、とね。
『花』という歌に「泣きなさい〜笑いなさい〜」て歌詞もあるし、生きてればいろいろツラく苦しいコトもあるけど、ソレでもあなたは人として生きる?というね。
ちなみにタイトルは「メメントモリ」のもとの言葉はこんなんだったんじゃないか?(もちろん違うけど)と勝手に考えた造語。