連日連夜的北京五輪。
今日は涼しい〜。暦の上では立秋も過ぎ、というコトで、朝は肌寒さを感じたぐらい。湿度計を見たら湿度も低い。空にはウロコ雲も見られたり。夏野菜もそろそろおしまい。
というワケで、もうすでに連日連夜のオリンピック漬け!金曜の開会式から、寝るのは1:00AMという日々でごじゃります。
開会式はなんちゅうか本中華(ウッシッシ)という感じで、まぁ一言で言えば「中国四千年!」て感じだったな。人力と花火力がとにかくスゴシ。圧制というか力でモノ言わすとあの国はやっぱりスゴイ!というコトになる。ナンダカンダ言ってもやっぱり社会主義なのだ!とか。
あのマスゲームのような人の一糸乱れぬ統制の取れ方とかは、日本と朝鮮半島と中国ぐらいのモノではないのだろうか。欧米諸国や他のアジア諸国でさえもあの独特の感覚は共有できないのではなかろうか、と思う。その共有のできなさが上にあげた3国の「オリエンタルなミステリアス」さを醸しだし、欧米諸国にある種の畏怖を与えてるのでは?、となんとなーく思う。なので日本人はあそこで繰り広げられたモノの意図というか本質めいたモノを理解する下敷きがなんとなーくでも民族的ベースとしてあるけど、他の国の人は浅いトコロでただ「ファンタスティック!」と言ってるだけに過ぎないんじゃなかろうか、と思ってしまう。逆にソレは欧米諸国でいえば、我々日本人が深いトコロまで理解できない宗教観みたいなモノにも通じるのカモしれない。
前回のアテネでもやはり我々日本人が(他の国の人も)理解できない、ソコまで深く踏みこめないギリシャ的な「民族的なモノの共有のできなさ」というのはあったカモしれない。覚えてないけど。ソレは過去のオリンピックもまたしかり。
ただ共有できるかどうかというのは別にしても、単純に圧巻で「ファンタスティック!」で楽しめる内容であったのは間違い無い。人がワイヤーであんなに高いトコロに吊られて、なおかつ競技場を空中ぐるり一周てのは、かなりデンジャーなコトだと思うんだけど(笑)、あの国はやってしまうんだというコトなんだな。普通ならせいぜい低いトコから矢かなんか放って聖火つけるだろ。某大国なら背中にロケットブースター積んで飛ぶでしょう。ソレが直で火ぃ付けに行くんだもん。「そんなメンドくさいコトしないで、直接火ぃ付けりゃいいんだろ」みたいな。その発想を実際に行動に移してしまうコトが笑えるし、中国の中華人民たるスゴさだと思う。中国発の事件とか、なんか全てに関して根底にその思想が流れているような気がしないでもない。
長い式ではあったけど飽きずに観れた。式の脚本?というか指揮したチャン・イーモウ監督の中国的ファンタジーの世界が心地よかった。どうせならもっと「竜」とかいかにも中国ぽいモノを出せば良かったのに。
競技はすでにリフティング、体操、柔道、水泳、女子バレーボールと観たけど、観た人は分かると思うがどうも日本勢が振るわない。大体いつもなら谷選手がオリンピックの序盤に金を取ってはずみがつくというのが日本の流れだったのだけれども、まさかの準決勝敗退。
谷選手はどうも結婚、出産を経て復帰してきた時から顔つきが変わったようにワタクシは思っていた。なんとなく余裕が無いのだ。でもソレは本来ならブランクがあるので当たり前なのだけど。その間にも世界は走り続けているからね。ただ谷選手は別格というか、やってくれるという安心感すらある。そんなプレッシャーさえも一心に受けとめてその上で勝つという器の大きさ。ソレをみんなが知ってるから素直に期待をかける。もちろん子育てとの両立の大変さというのもあるでしょう。観てて自分に克つ、自分で調子づいてくというのがいかに大事かというのが分かった。今回は谷選手は自分で自分をのせてくコトができてないように見えた。というのは自分の柔道と相手の、世界の「JUDO」との歯車が噛み合ってないように思えたからだ。谷選手は自分の柔道と世界の「JUDO」の違いをまだ克服できていないように思える。
世界の柔道が「JUDO」という全く違う競技になってしまった。なんか試合観てて「コレはレスリングだ」「総合格闘技だ」と。解説の篠原氏が言うように腰がひけてて。というのは足を取られるのを防ぐためであって。もう観た感じ「タックルに入る総合の選手」と「ソレを防ごうとしてる総合の選手」にしか映らない。で、攻めをしくじったと思うとすぐに自らツブれて動かない。指導でも1ポイントでも差がつけば、掛け逃げに限りなく近い「グレー」な動きで逃げ切ろうとする。総合で言えば三流の試合である。
昔ながらの、腰がすわったドッシリと構える柔道、というイメージが崩れてしまった。そういう日本の柔道はもうオールドスタイルなのだろうか?背負い投げで一本を取るというスタイルは古いのだろうか?こういう世界の「JUDO」を、競技の頂点であるオリンピックという場で、世界中の人に見せていいのだろうか?とさえ思う。柔道とは武道なのだ。「道」なのである。ソレは文武両道と言うコトであって、どちらが欠けても成り立たないのである。その「道」がどうも先ほどの言葉を用いるならば、外国に「共有」されていないように思える。篠原氏からはハガユサさえ感じる。
でもコレが世界のスタンダードなのだ。コレに日本の柔道は打ち勝っていかなければならない。その点で、野村選手の引退というのは悔やまれる。彼は世界のJUDOを日本の柔道で勝つ試合をしていた。世界のJUDOを超える日本の柔道。JUDOならではの技術・戦略に打ち勝つ背負い投げ一本。日本の柔道で勝負するなら日本の選手には勝てない。そう考えた諸外国の選手らが日本の柔道に打ち勝つために「JUDO」を生み出したのカモしれない。そうも考えられる。しかしいつまでも野村でもマズい。後進が活躍する場も必要だ。そして世界のJUDOに対抗するためにはレスリング技術も必要になってきた。そういう時代だと納得するしかない。