そして「榊いずみ」が生まれた。 Family Tree/榊いずみ
Family Tree 榊いずみ by G-Tools |
前作『深色』から約5年、そしてフルアルバムとしてはなんと10年ぶり!という、榊いずみとしては初めてのアルバム『Family Tree』。でるでるでるでる言われつづけ、ソレでもなかなかなかな〜か出ずに、ファンとしてはノドを掻き毟る(かきむしる)ぐらい待ちわびていたのだが、やっっとデタ!たぶん一番いずみさん本人が思ってるコトなんでしょうけど。
このアルバムを聴いて、お気付きの方もいるカモしれないけど、まず聴いてすぐ分かるのは「暮らし」という言葉がソコカシコに出てくるコト。コレは橘いずみ時代には出てこなかった言葉。橘いずみは「生活」と歌ってたんだよ。この言葉1つの違い、コレだけでも「榊いずみ」と「橘いずみ」の違いが分かる。
ワタクシはかつて「この人は今、生活生活と歌ってるけど、いずれその「生活」が「暮らし」になればいいな、、」なんて勝手に思ってた。
セイカツ。その言葉の響きはカタい。カタくて、1人で、ソレなりに毎日は忙しく、ソレなりに充実感もなくはないけど、何か満たされないような鬱屈してるような、何か余裕めいたモノがない。ため息をしても1人、みたいな。そういう気持ちの象徴として、この「生活」という言葉は橘いずみのキーワードの1つとして用いられてきた、と思ってる。
ところが今回のアルバムからは「生活」という言葉が消え、代わりに「暮らし」という、湯気が立ち上るシチューのような、1人ではなく、家族を思わせるような、あたたかくやわらかい言葉が使われてる。
なぜ「生活」が「暮らし」へと変化したのだろう?
ソレはやはり、人生上におけるパートナーを得たコトが大きいように思う。1人の存在によって、使う言葉も変わるなんて。だからこそ、このアルバムも作り上げるコトができたんだと思う。
「橘いずみ」という人も愛について歌ってはいたけども、ソレは自分が愛というモノに飢えていたからだろう(言葉をへんな風にとらえて欲しくないが)。愛というのは、何か漠然としててとてつもなくデカく遠い空の彼方にあるモノ。そんな風に思ってたけど、ホントはそんなモノじゃなかった。
「恋愛」なんて言葉では並べて言うけど、恋と愛というモノは「似て非なるモノ」だと思う。カッコ良く言えば、恋は追いかけるモノで、愛は、ソコにあるモノ。というよりワタクシたち人間は、愛に包まれて生きている。
ワタクシたちを取り巻く何でもない日常生活という世界は、人の想いでできている。いずみさんは今まで見ていた、「生活」であった何でもないこの世界が、1人の人と出会うコトによって、急に光を放ち色彩を帯びてその目に飛び込んできたんだと思う。愛はここにあったんだ、と気付いたんだと思う。アルバム1曲目『New Song』を聴いてるとそう思う。
私は愛の中に居て、愛に包まれて、今まさにここにいる、生きている。だからもう大丈夫、、。
タイトル曲『Family Tree』で歌われてるけど、言葉としては使い方が違うけど、ソレに気付いた時に未来が色鮮やかに「フラッシュバック」したのだろう。「No Future」だから「今」じゃなく、「For The Future」としての「今」。
歌声を聴いてると、声に強さを感じる。全編に渡って。ソレは橘いずみ時代の言葉や表現の強さではなく、自信に満ちたような強さだ。橘いずみの歌は、歌詞はインパクトがあって激情的だけど、ソレは自分の弱さの裏返しで、その弱さの部分にワタクシは共感したんだと思う。そういうファンの人も多いように思う。
時が進むに連れ、橘いずみはハタから見るとどんどん強くなる一方で、「この人、もう1人で生きていけるんじゃないか?」というくらいの強度を持った、半ば「孤高の存在」オーラを発してたように思う。たしかにソレも人が生きてく上で必要なモノではあるけど、ソレはまるでコンクリのような、カチンカチンに固まった強さであり、ホントの強さとはまた別なモノなのカモしれない。
いずみさんが旦那さんと出会った瞬間にどう思ったかは知らないけど、たぶん旦那さんの存在が、カチンカチンなモノにスルリと滑りこみ、ハラリとほどけたんだと思う。有無を言う間も無く他人を受け入れるて、そういうコトカモしれない。
たぶん女性というのは、男が思う以上に不安を抱いて生きてるんだと思う。ソコを1人の人に出会ったコトで、理屈じゃ説明できないくらいの、1+1=∞ぐらいの、生きてく上での力強さを得たんだと思う。
いずみさんの歌声のたしかな強さにそんなコトを思った。
橘いずみのファンになり始めた時から、そうなるようにと願っていた。その瞬間(あえて瞬間と表現する)に立ち会えて良かったと思う。そういう思いがパッケージングされた今作品。ファン冥利に尽きる。つづく