我(が)について。
最近見たTVで料理家の辰巳芳子さんと、また別の番組で見たあるお寺の住職の方がくしくも同じようなコトを言ってた。
「物に向き合っていると、我がなくなっていく」
文章は違うがこんな内容のコトを。人対人というのは、ある程度融通が利く。言葉という伝達方法があるから(言葉以外にも表情など)「話せばわかる」というのがある。お互い歩み寄るコトが可能だけど、対物の場合、物は歩み寄って来やしない。こっちが積極的に歩いていかないといけない。
例えば「子育て」というのがあるが、子供は言うコト聞きゃあしない。だけどソレも年が経つにつれ、じょじょに言うコトを理解してくれるようになる。でも物、例えばギターでもいいだろう。ギターは人が弾いて練習しない限り、ギターを弾く技術はうまくならない。勝手に自動的にうまくなったら、世の中もっと簡単に生きていける。ソレに弾けばうまくなるのかと言えばそーでもなかったする。いくつもカベが立ちはだかる。
農作物を育てる、花を育てる。人がある程度の補正をするコトはできるけども、大半の部分は自然に委ねなければならない。去年と同じようにやったつもりだけれど今年は全くダメだった。とにかく物は言うコトを聞いてくれない。物は妥協をしてくれないから、己が妥協をするコトになる。あれやこれや工夫を重ねてる時点で、もうすでに我というモノが綻びかけている。赤ちゃんを育てるというのも、お母さんはどんどん我がなくなっていくのではないだろうか。とにかく相手は我がまま方題なのだから、自分が折れていかないとどーしようもない。ソコが子育ての一番のストレスなんだろう。
たぶん僧の修行というのは、そういう逆らえない・抗うコトのできない状況を意図的に作って、自らに課していくコトによって、我を捨てるコトが目的なんじゃないか、と思う。人生でも普通に生きてればソレなりにそういった状況に直面するコトはあるけど、ソレの短縮バージョンなんだろう。ギュっと凝縮したやつ。で「念仏を唱える」というのは、きっとアレで左脳を埋め尽くすんだと思う。左脳で余計なコトを考えるスキを与えないようにしてる。左脳で考えると我が出てきちゃうんだろう。「あーなんでオレはこんなコトやってるんだろう、、」とか「ハラへったな〜」とか。いわゆる「雑念を払う」てやつだ。で右脳は開けといて、右脳のひらめきに頼るとか。
人て自分を上に置きたがる傾向にあると思う。人が誰かや何かをどうにかしよう、どうにかしたなんてコトは間違っている。だからといって自分を卑下するでもなく、過小評価するでもなく、人も物も自然もみんな横並びなんじゃないかと思う。人が特別なんじゃない。あくまで自然物の一部で風景の一部なんだと思う。奢るべからず、であり高貴さや気高さも持ち合わせる、というコトだ。