闘い合えることの尊さ。
先週ラグビーW杯が終わって「ラグビーロス」の人もいるかと思われる。しかしスポーツの秋というぐらい、この時期スポーツのビッグイベントが目白押しだ。今週はなんといってもコレだ。ボクシングWBSS決勝、井上尚弥選手vsドネア選手の試合。勝負は最終12ラウンドまでもつれ込み、結果は井上選手の判定勝ち!
しかし勝負ゴトというのは相手がいないと成り立たない。自分1人だけでは成立しない。だからか、どんなジャンルでもトップクラスの選手になると、相手に対して「リスペクト」という言葉が必ずといっていいほど出てくる。試合は本番だけではなく、カードが決まってその時点からすでに始まっているといっても過言ではない。もしかしたら井上選手の場合はこのボクシングの世界に身を投じた時点で、ドネア選手の存在を意識してたカモしれない。憧れの存在がいつか闘う時が来るという存在へ、目標へ。いつか闘う時のために、そしてカードが決まってから試合当日までの練習に明け暮れるであろう日々。
今回ラグビーW杯の日本代表選手が「いろんなことを犠牲にして」という言葉を何度か口にしていた。この言葉は今のワタクシには解る。様々な日常的な誘惑、友人の誘いなどなどをガマンして、振り切ってまでラグビーに打ち込まなければならない。没頭しなければならない。まるで襲ってくる相手を振り切って、大事にボールを抱え敵陣に突っ込むかのごとく。その分周りにも迷惑をかけるコトになる。細かいサポートが必要になる。ラグビー中心の生活にならざるを得ない。というか生活が「ONE TEAM」でラグビーそのものになってくる。ソコまで打ち込まなければ、全てを注がなければ勝てないであろう相手。相手もソコまでやっている、いや自分以上にやっている。毎日相手のコトを考え、試合当日にお互いが向かい合う。相手が自分と競い合う、闘い合う同じ土俵の上に立って「くれている」その努力。自分と同じような辛い練習の日々、努力を相手もしている。ソレを想うからこそ、闘う相手にも尊敬の念を持つ。ましてや今回、井上選手からすれば憧れだった存在と闘える、かたやドネア選手は自分に憧れてくれた人が自分の相手になるまでの存在に成長した、そしてお互いの偉業の数々をもちろん知っている。こうなったらもうお互い、相手に失礼がないように全力で闘い合う。ソレが礼儀だ。
そして試合が決すればノーサイド。相手がいたから自分がこの高みまでのぼるコトができた。相手も決まらずただ単調に練習の日々を重ねるより、試合が決まって日にちが決まって、という具体的なモノがあるほうが張り合いも出てくるし、自分のレベルアップの速度も変わる。相手に失礼のないように。もちろん観客に見られるのだからソレ相応のという意識もあるだろうし、なにより自分が勝つために。
外野が相手に対して蔑んだりヤジるのは野暮なコトだ。相手がいるから試合は成立するのだから。ひとりじゃ高みにはのぼれないのだ。
ココにプロレスラーである藤原組長の言葉を引用しておこう。コレは某雑誌のインタビュー記事の抜粋である。全てのスポーツに当てはまると思うよ。
『俺たちのやってることって、礼儀を取ったらただの“暴力”になっちゃうだろ? プロのスパーリングっていうのはね、練習とはいえ、先輩後輩関係なく、『極めてやる! 』ときには『ぶっ殺してやる! 』と思いながら、本気でやるもんなんだよ。』
『でも、そういう本気の練習、本気のスパーリングっていうのは、相手がいるからこそできること。だからこそ、練習が終わると『ありがとうございました! 』と、座礼するわけだ。そして俺たちは毎日練習するわけだから、『明日もよろしくな』っていう意味合いもあったりもする。』
ダンスは一人じゃ踊れない。そしてノーサイドの精神。