(ネタバレ含む) 『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』を観た。後編
この『機動戦士ガンダムNT』は「宇宙世紀を題材にしたガンダム作品の振り返りと、そのシリーズの拡大を目指す「UC NexT 0100」 PROJECTそしてその第一弾」だが、ニュータイプとかガンダム世界の架空の設定を除けば、この現実世界にも当てはまらないだろうか。「AD NexT 0100」(=西暦の次の100年)と考えるコトもできるのではないだろうか。
「18mのMSにサイコフレームを鋳込んで人の魂を封じ込める」なんて現時点ではアニメの世界でのトンデモ系笑い話でしかないが、ソレがたとえば「仮想空間」という場なら話は笑えなくなってくる。ホログラムやらなんやらで擬似的に立体視して、個人の意識を再生できるような装置が開発されたり、またはVR、ソレとは別に脳みそだけ生きていれば、あとは機械の身体で生きられる、もしくは人工知能に置き換える、自分の意識を別のモノに「鋳込む」=移す。またはクローン、自分丸ごと冷凍保存などの個の保存・延命、、。いや、ニュータイプまで行かなくても死者(あの世)との対話ができるようになるカモしれない。ソレこそ知能の高いAIによって人が使われてない能力を見いだされ引き出され、本当にニュータイプのような人類が現れるカモしれない。コンピューターと電極でつないでAIの知能をフィードバックしたりして。現に将棋や囲碁の世界では従来の価値観では使われなかった手が使われるようになっているようだし。
いくらでも不老不死に近づく技術がすでに、またはその萌芽が存在し、『NT』でいうトコロのシンギュラリティ(・ワン)=技術的特異点、に近づいていく。コレらはこの現実世界での「次の100年」、とまでは言わないまでも「遠い未来」の問題、になる可能性はないとは言えないだろう。そして、ある臨界点においてリタのように、人には扱えない、オーバーテクノロジーだと言ってくれる何か(誰か)が現実世界にいてくれるならいいが、いないのなら人は自分で自制しなければならない。そのときに人は自らのブレーキで立ち止まるコトができるか。
またヨナはフェネクスの姿をしたリタのコトを「人ではない」と即答した。ワタクシはこの即答ぶりにちょっと「?」と思った。たしかに「人」の形はしていないが、ソレが「リタ」ではない、とは言い切れないと思った。脳みそだけであとはサイボーグだとか、どこまでが「人」で「人じゃない」のか、どこまでが「個人」で「個人じゃない」のか、その線引きがあいまいになってくるのも 案外近い将来問題になってるのカモしれない。
あと福井氏の「死者との対話ができる」というニュータイプ論にワタクシは全面的には賛同できない。まぁもちろん魂という解釈だからこそ、今回の魂がフェネクスに封じ込められて、という話が成立するのは理解しているけども、ワタクシはニュータイプというのは「死者との対話」ではなく「思念(生きている者や死んだ者含めて)との対話」だと考えている。超能力でサイコメトリー(物体に触れることにより、そこに残された人の記憶を読み取る能力・現象)というのがある。残された人の記憶=残留思念という言葉があるのか知らないけど、生きている人の(思考)思念やその場に残された死んだ人の残留している思念を感じ取る、という能力がニュータイプは非常に高いのだと考えている。(戦場の中で)極限の緊張感やストレスなどの刺激に晒されて、脳の松果体みたいな部位が爆発というか開くというか(チャクラみたいなモノかね笑。宇宙空間という果てしない大きさの中で空間認識力がずば抜けたり人や動くモノの気配を鋭敏に感じたりする。自分と相手の位置関係がイメージできたり、相手の思考まで読み取ることができたり。生存とか防衛本能の極限まで、または限界を超えた形で現れたのがいわゆるニュータイプなんじゃないかと。よくスポーツでゾーンに入ったりするアスリートもいるようだけど、あの感じに近いもしくはアレのもっと強烈にすごい版なのカモしれない。そういう解釈をすると「死者との対話」というのはまた方向がちがうような気がする。最近観たZ(ゼータ)で、アーガマ内にいるカミーユが、すでに出撃しているエマのピンチを察知するという場面がある。そういう勘の鋭さが極限まで引き出されると、頭にビジョンが浮かぶというか、そういうコトなんじゃないかと思う。
『逆シャア』のアクシズ・ショック。アレはワタクシは「あり」だと思うのだ。ただあそこまでだとも思ってる。あれは味方や敵関係なく人々(かなりの人数)の「地球に落としてはいけない」という思い(思念)の総意がアクシズ自体の軌道を修正させたと解釈してる。でも『UC』はせいぜいがバナージとリディと、あと状況を知っている数人ていどの人数で、しかも実際にはバナージとリディの2人だけでコロニーレーザーを止めた。アクシズ・ショックとは意味合いがちがう。「敵味方関係なく」というのが大事だし、「人類の脅威を、思いを行動に移して食い止めた」というのが大事だと思っている。皆がひとつの思いになれば「奇跡」も起こせる。そのメッセージが一番重要なんじゃないだろうか。その点が『UC』は弱いのか、抜け落ちている。
ワタクシのニュータイプのイメージというのは、OO(ダブルオー)の刹那のトランザムライザーによる量子空間=人の思念の対話、のイメージなんだよな。アレが一番近い。戦うというレベルの低い手段で解決するのではなく、対話という手段でなしえようという。だからそういう(半ば強制的に)話し合いのできる空間を現出できるわけだ。力で解決というのは戦争に代表するようにオールドタイプで前時代的で、ソレを乗り越えた対話という形で解決しようというのがニュータイプ的な考え方なんじゃないのだろうか。だから本来ならゾルタンも救うべきなんじゃないだろうかと。欠けてる部分を攻めるのではなく、思いやりや優しさや愛でもって包み込む。恨みや憎しみを成仏させるというのが本来なんだと思う。人は誰でもが欠けているのだから、ソコを攻めてもいずれ自分に跳ね返ってくる。ワタクシはそういう考えを『クイン・ガンダム』には盛り込んでいるつもりだ。
作ったスタッフが「オカルト」と称してるのだからいいだろうけど、まぁ『UC』(ユニコーン)のクライマックスとかあそこまでやられちゃうとまるで魔法使いのようで「別にガンダムじゃなくてもいいじゃん」とか思って、正直興ざめして白けてしまった自分もいる。『NT』も『UC』のオカルトを引き継いでるから、なんだかなぁーな自分もいる。結局福井氏のニュータイプ論を突き詰めていくと(「その先」と言ってるくらいだから)オカルトにならざるをえない。だからガンダム好き全員にはお勧めできない。ワタクシ的には甘めで75点、辛口で65点という感じかな。まー宇宙世紀モノだし、新作だしてんで1回は観ておくか、と。何回も見なくてもいい。なんなら40インチのTVで家で観るぐらいでもいい。まぁ同じく単発モノの『F91』と同レベルぐらいなのかなー。結局、映画で単発だからTVシリーズに比べてどうしてもキャラへの感情移入が薄くなるし。ZとかZZとか歴代のアニメのワンシーンが出てきたのは嬉しいけどね。映画のスクリーンで観る体験は過去になかったから。『UC』が好きな人にはいいでしょう。とりあえずもうニュータイプについてはおなかいっぱいだな。来年の『閃光のハサウェイ』はまったく別のモノを見せてほしい。『NT』はあえて手描きだったらしいけど、その効果のほどはていうと「なんだか古くさい」という感じはしたな笑。ニュータイプが何か感じるときのイナヅマが走る表現も懐かしいけど古くさいし。ナラティブガンダムが最新鋭機ではないていうのにかけてるのかな。『ハサウェイ』は予告見たらCGぽかったけど、ソレを期待。
ふと『メーテルリンクの青い鳥』を思い出して、今調べたらチルチルミチルのチルチルは古谷さんが声をやってるので「おお」とか思ったりした笑
特典の年賀ハガキとトレーディングカード。が入ってた袋。