(ネタバレ含む) 『機動戦士ガンダムNT(ナラティブ)』を観た。前編
いやあ、やっと観に行ったけど、映画何年ぶりかなー。
書き始めは作品に関係ないコトをば。最寄り駅のビルのシネコンでやってたのでソコで観たんだけど、エレベーターの扉が開いてまず目に飛び込んできたのが、
ポン!あたーりぃぃ。どーんと鎮座してて。コレてケッコーするんだよなあ。と思って調べたら↓
http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1807/14/news010.html
53万8000円だってよ。デジタルがアナログに落とし込まれたというか。イスは置いてなかったけど。ミッドセンチュリー的なイームズとか合いそうな年代の、まぁコレ自体ちょっとおしゃれなインテリアにもなるていうね。
あと1人用カラオケが2台設置されてた。ガラス張りの簡易シャワールームみたいな笑。誰もご利用していない。時間限定で無料だったけど。
で、まだ上映まで時間があったので先にチケットを買っとこうと思って窓口に行ったら、今はもう自動券売機なのね。アレて「口」がいっぱいあってワケわかんない。紙幣挿入口、硬貨投入口、カード読み込み、チケット取り出し口などなど、、。なんかつまんないね。何てことはないけど、チケットを売る人とのちょっとしたやりとりが良かったのに。なんでもかんでもセルフ。でもセルフにしたおかげでコストダウンできて(人件費)、その分チケット購入がお安くなるていうのはあるね。実際なんとかデーで割引とか昔に比べて増えたし。どっちがいいんでしょね。
ソレでやっと本編の感想ですわ。とりとめなく書いてくけど、まず思ったのはとにかく「鳥」推しだな、と。冒頭、ハト(?)が舞うところからずっと鳥づくし。コレはたぶんフェネクスありきなんだと思う。そっから連想ゲームのようにして、ペンダントとか鳥になりたいとか鳥をモチーフにして。やせっぽちの、骸骨のようにガリガリの容姿のナラティブガンダムから、鳥のようにコアファイターが飛び出す。肉体から赤い心臓とか魂が飛び出すようにも見える。あんなに翼広げて、どのように収納してるんだてハナシだけども笑。
サイコ・キャプチャーはフェネクスを捕らえる鳥籠(とりかご)だし。鳥といえば自由の象徴というか、ありふれた歌の歌詞にも出てくるように人が憧れる存在でもある。人の欲望。言うならばフェネクス自体も「鳥籠」だと。魂がサイコフレームに「封じ込め」られている。主人公のヨナはリタが自分とミシェルの代わりに犠牲になってフェネクスに捕らえられていると考えている。でもソレもあるだろうけど、「鳥になりたい」というリタの望みでもある。人の魂は身体、肉体に捕らえられている、肉体が鳥籠だ、という考え方もできる。
そういう物質的なモノのほかに、誰かが言った言葉や過去などに人は捕らえられている。囚われているというべきか。ヨナは今はもうそばにはいないリタの過去の言動に囚われている。今はいないから余計にだ。話の終盤にさしかかるまで、ヨナは過去から抜け出せないでいる。過去にこだわり、囚われている。たぶんミシェルも同様だろう。ただミシェルの立ち振る舞いが1回観ただけじゃワタクシには正直よく理解できない。何回か観なきゃ理解できないなと思う。なのでミシェルについてはあまり語るコトができないが、最後は自分の身を犠牲にしてまでフェネクスの力になろうとする。ヨナがフェネクスを追うのは、フェネクスに囚われてるであろうリタへの謝罪と過去から抜け出たいからだ。ミシェルにもヨナ同様、リタへの謝罪の気持ちがあったのだろう。
劇中で語られる、フェネクスのサイコフレームにはリタの魂が封じ込められてる=魂の永久保存。加えてフェネクスに(というか「本物」のニュータイプであるリタの能力)は時を巻き戻す力があるという。人の肉体は期間限定だけど、フェネクスはその力によって不老不死だと推測されている。フェネクスは「魂は存在する」という極めて重要な物的証拠になる。連邦も「袖付き」ネオ・ジオンもその絶対的な力を手に入れようとフェネクスを捕らえようと試みる。だが、たとえ不老不死になったとして、果してソレは幸せだと言えるのだろうか。
そしてニュータイプには、死者と会話ができるという能力がある(あくまでコレは福井氏のニュータイプ論)。
この世に生きてる我々は、肉体により個人個人分けられている。その肉体という「鳥籠」がなくなり、1つに溶け合って他者と瞬時に通じ合えるというのは、一見とても良いコトのように思える。しかしソレは今の生きてる状態が分断されているからなおさらそう思うのカモしれない。瞬時にあるいは思う(想う)と同時に通じ合えるというのが当たり前の状態を想像したらどう思うだろうか。全てがオープンで、風通しが良すぎるぐらい良い。おまけに不老不死で死なない。死や老いの恐怖も無い。もちろん戦争で殺されるコトも無い。全てがオープンで筒抜けなら、殺しあうコトもできないだろう。何もかも満たされて奪い合うことも無い。平和すぎるくらい平和で大変結構だと考える人もいるカモしれないが、ソレは果てしの無い砂漠にほっぽり出されたような光景にも思える。ソレはとてつもなくつまらないコトなのではないだろうか。
何の不自由もない=「退屈」ではないだろうか。
何もかも満たされた状態=「つまらない」のでは。満たされてるから欲望・願望が無い=成長が無い、というコトにはならないだろうか。
そもそも我々人間が60億だかいるのは、なぜこんなに存在する必要があるのか。「あの世」では何もかも満たされて不自由が無い、ツーツーで他人と、というかひとつに溶け合ってるらしいが、「この世」はそのような状態ではない。命は有限で、正直生きていくのがこんなにも面倒くさいのはなぜか。さらに犬猫のようにただ生きて種を残すのが目的ではなく、様々な事柄について考えたり意味づけしたり、メンドくさいコトこの上ない生き物だ。コレらはもう、わざわざそういう状態を人間という生き物が選んで生きている、という考え方はできないだろうか。
成長した達成感を味わうためにわざわざ制限のある身体を有した形を選んでるのカモしれない。60億通りの成長のしかた。
人は満たされてないから奪い合う。諍いが絶えない。「袖付き」のゾルタンは劣等コンプレックス、承認欲求のカタマリだ。何かと比べるから自らに失敗作という烙印を押してしまう。自分に呪いをかけている。ソレが彼の種火に油を注ぐ、生きる負のエネルギー、原動力になっている。そして失敗の反対「成功」があると思っている。じゃああえて書いてみるが、フル・フロンタルは「成功作」だろうか。そして大元のシャアは?たしかにシャアは赤い彗星と呼ばれ多大な戦火をあげただろうが、人間としてはマザコンで復讐心に燃えて、、と偏った欠落した人間とは言えないだろうか。その大元の人間の再来計画の成功作て、、。成功も失敗も無いのでは?
人は誰もが欠けている、という前提に立ってみる。その「欠落」をどう解釈するか。人は簡単にダークサイドに落ちる。欠落を燃料にして負のエネルギーに。しかしその欠落を良い意味で受け入れれば、その人のその人自身を表す個性にもなり強みにもなり、60億分の1の人類としての成長へのエネルギーにもなりえる。ソレがガンダム世界で言うトコロの「人の可能性」だ。
後編につづく