リボンズはどうして「歪んだ」のか?〜ガンダムOO〜
3月29日の放送でガンダムOO(ダブルオー)は、「来年劇場版!!」というビッグサプライズを残して、TVの本編は一応終わった。
そしてすぐさま深夜にセカンドシーズンの再放送をしてるのを知る。「半年前にやったばかりだし、まだ話も覚えてるから観る必要あるかな〜?」なんて思いながらも、先週の第2話『ツインドライヴ』を録画して観たら、ケッコー観る必要があるのに気づかされる(笑)。
ていうのは、改めて再放送を見直すコトで、数々の伏線が今になれば「ああなるほどね!そういうつながりがあるのか」と分かるのである。いわばコレは劇場版へと続くおさらい、というコトであり、そのための再放送とも言えそうだ。
そもそも「ツインドライヴ」がエクシアとO(オー)ガンダムのGNドライヴ、2つのGNドライヴを同調させるコトによって、OOガンダムは始動・能力を発揮するという1つを取っても深読みできる。Oガンダムはもともとリボンズが乗っていた。そしてエクシアは刹那が乗ってた。というコトは直訳的に「刹那とリボンズが同調するコトでOOの絶大なる力を発揮できる」と、そういう解釈もできる。
リボンズがなぜ少年の刹那を助けたのか?というのも、この解釈をすると分かるような気もする。Oガンダムを刹那に見られた時点で刹那を殺さなければいけなかったはずなのに、リボンズはソレをしなかった。
本来ならリボンズはあのままOガンダムに乗りつづけ、ソレスタルビーイングで活動し続けてくはずなのに、何故かリボンズはその後、まるで刹那に託すかのようにソレスタルビーイングを離れるコトになる。リボンズにしてみれば、やがて「自分の前に立ちはだかる敵」を育てるコトと同義になるのだが、その育った刹那を打ち倒すコトで「自分のイノベイターたる存在の優位性を証明するため刹那を利用した」であったのは最終回のリボンズの言うトコロ。
ただリボンズの誤算といえば(誤算なのか確信犯なのか分からないけど)刹那はリボンズの考えた以上に成長、イノベイターとしての『変革』をしてしまったコトだろうな、と思う。リボンズにしてみれば「ココまで自分をおびやかすとは、、」という思いだろう。
でもなんでそんな回りくどいコトをしなきゃならなっかたのか?というのも疑問だけど、ソコが人間をみくびってたリボンズのスキであり甘さだろうと思う。またはひょっとしたら、この時点ではまだ「人間を信じてみよう、、」という気持ちが少しは残っていたのカモしれない。
戦うコトを止めない人類にホトホト呆れながらも、まだ信じてみよう賭けてみようと刹那にその思いを託してみたではないだろうか?リボンズだって初めからああではなかったはずなのだ。ただソレスタルビーイングとして活動しているうちに、戦いを止めない人間たちをさんざん目の当たりにするうちに「人間はどうしようもない」という境地に立ったのではないか、と。そして本来の「自分は人間の上位種である」という意識が増長し、ソレがやがてリボンズの中で「歪み」となっていったんだと思う。結局「歪み」の元凶は、「人間が戦いを止めないコト」なのだ。
最後の最後までリボンズと刹那は戦いを止めるコトができず、痛み分けに終わった。結局刹那はソレスタルビーイングに戻り、リボンズの行方は知れず。
コレは表向きは2人の人間(いや人間ではないけど:笑)が戦う、という場面だけど実は人1人の頭の中の縮図みたいなモノだと思う。人の頭の中では常に「リボンズと刹那」が戦ってる、葛藤してる。その脳内の戦いが顕在化された場面なんだと。だから最後、2人はエクシアとOガンダムという古い機体を持ち出してまで戦い続ける。マリナの歌もあいまって、ワタクシは見ててなんだか次第に「子供のケンカ」のように思えてきた。レベルを下げてまでして戦わなきゃいけないのか、情けない、という。
ワタクシは最終回では刹那とリボンズは分かり合うのかと思っていた。刹那が「歪み」のモト、全ての諸悪の根源であるリボンズさえも許すコトで、刹那はやっと過去の自分を認め許し受け入れるコトができるようになる、とそういう結末だと思っていた。そして自分のような「あの頃の少年」を増やさないように努めるのが彼の今後すべき行動、であったはずなのだ。がさすがにソコまでは刹那の器はデカくはなかった。いや、刹那はリボンズさえも許し受け入れようと必死に説得をしていた。がリボンズは自らのエゴ(=リボンズが自分の存在理由と思っているモノ。最後には上位種としての意地になってしまったが、、)を捨てるコトをせず、いつまでも執着をしている。
本来はリボンズさえも許し、分かり合うコトでOOはやっと完結するのではないか。でも残念ながら人はソコまで達観した生き物ではない。よってリボンズ的なモノと葛藤を続けながら、内包しながらも「共に生きる」という方向で人は歩んでくしかないのだとも思う。相手を、対象を根絶するのではなく「共存」という方向で。コレはアレルヤ/ハレルヤ、ピーリス/マリーにも当てはまるコトで、彼らは彼らの内なる別人格を、憎むでも排除するでもなく共に生きるコトを選んだ。人は矛盾を抱え他者との違いを認めながら、ソレを許し受け入れながら生きてくしかないのだ。
最終的には「人間を見限った」シャアと「信じ続けようとする」アムロ、というガンダムの構図に帰結したワケだけども、約30年の時を経て古谷、、いや蒼月さん(笑)は主役の反対側に立って、どういう思いで演じていたのだろうか?何か某雑誌に、最終話のリハーサルでは「リボンズ・アルマーク、行きまーすっ!」と言ったと書いてあって、いいなぁーぜひ聞きたかったなぁーと思った。
OOの放送が日曜で、日曜の夜といえばBSでCGTV(カーグラフィックTV)の再放送をやってるのだけど、ワタクシはソレも見てて、CGTVのナレーションが古谷さんなので、CGTVを見ながらヒジョーにフクザツな気持ちになったのだった。まだOOが放送する前は「アムロがナレーション、、」だったのに、OOが始まってからは「あーコレもリボンズの思惑通り、、?ん?」みたいな感じになってヤヤコシイ(笑)