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西の魔女が死んだ/梨木香歩 のつづきのつづき。

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梨木 香歩

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そもそも生きていることそれ自体が「生への執着」ですから、わたくしたちは執着することなしでは生きて行けません。それを肯定して生きるための観念を持っているのです。生きることそのものが「表現」です。人の表現活動になります。物事に執着しなければ感動も表現活動もありません。それが人が不完全である所以(ゆえん)なのかもしれません。人は不完全であるが故に、心動かされ物事に執着し、さまざまな表現や創造を生み出す可能性があるのだと思います。その可能性が、地球の人口で言うなら60億の可能性があるということです。
本当は執着についてだけ簡単に書こうと思ってたので、こんなに長くなる予定ではなかったのですが(笑)、もう1つ話に出てくる「直観」について触れて置きます。これもP138ですが、おばあちゃんが直観について話している場面です。
「魔女は自分の直観を大事にしなければなりません。でも、その直観に取りつかれてはなりません。そうなると、それはもう、激しい思い込み、妄想となって、その人自身を支配してしまうのです。」
言い方が適切かどうか分かりませんが、わたくしは「正しい」直観と「正しくない」直観があると思います。それは先ほどの「観念」も関係してくると思います。まいはゲンジのことを先入観で嫌悪を抱いてました。それはまいの直観なのですが、対象についてまだほんの一部分しか情報を知らないのに、そのことがその対象の全てと勝手に拡大してイメージしてしまうことです。それが観念です。人は自分に都合の良いように解釈します。人の脳みその機能によるものが大きいですが、実際はある一方向の視点からしか対象を見ていないのでそれが「全て」ではありません。対象にも、この場合はゲンジにもちがう側面があります。
例えばお坊さんのように日々規律正しい生活をし、常に五感を錆び付かせないよう鈍らせないよう研ぎ澄ます。なるべく自然に近い、自然に沿った形での生き方をする。そういった人の直観なら「正しい」と言えるのかもしれません。つねに自然とつながっているような人の直観。自然とつながっているということは「自然と周波数を合わせている」ということです。
でもわたくしたち現代人、とくに都市で生活をしている人は文明に頼ってない人より第六感、五感の感覚も鈍っているように思います。物が便利になっているので、使わない能力は身体の方が「使わないでいいや〜」と怠けるからです。ようするに退化しています。自然とのつながりも遮断しているため(生活の乱れなども入ります)いわゆるアンテナの精度が鈍っている気がします。ノイズを傍受することも多々あるでしょう。そういうノイズに心惑わされることもありそうです。
そういった、普段の生活で研鑚を積んでいない「直観」というのは、これはどうなんでしょう?正しい直観なのでしょうか?わたくしはそう思います。おばあちゃんの淡々とした生活というのも、自分の感覚をフルに活かすために、常にピュアな直観を得るための生活、というようにも見受けられます。
この本に収録されている『渡りの一日」は、まいの実践編にあたる側面もありますが、まいの友人のショウコという女の子が登場人物として出てきて、彼女たちの「結果オーライ」的な一日が書かれています。
ショウコはまいとは違う性格・ものの見方・考え方をしています。正反対と言ってもいいかもしれません。でも2人が引き合うのは「学校で浮いている」という境遇が似てる者同士、だということです。2人はどちらかというと噛み合っていません。話を読めば分かるのですが、その「噛み合わなさ」が「結果オーライ」につながっています。
よく「価値観の似てる人」を異性のタイプにあげる人がいますが、わたくしはどちらかというとあまり似ていない方がいいのではないだろうか?と思います。これは別にわたくしがそういうタイプがいいというわけではないのですが(笑)、ようするに価値観の似た者同士だと世界の広がりが無いからです。こういうことを言うと興ざめかも知れませんが、生物学的にも似たDNA同士よりは違うDNAがくっ付いた方が生物として強くなれます。それぞれの弱い部分を補完しあえるからです。
似ている者同士というのは友達としてもくっつきやすいですが、そこに違う考えや意見が加わるから新しい価値観や考えを発見するのであって、そこをお互いに認め合えればいいわけです。180度全く違うとこれはお互い理解できず衝突も多そうで考えものですけど、例えば笑えるツボが同じとか何か1つでも共通する部分があれば、それでいいような気もします。まぁその割合は個人差があるわけですけど。
たぶんこの2人というのは根底にないものねだり的な、まいにはあってショウコにはなく、ショウコにはあってまいにはないもの、があってお互いに引き合っているのでしょう。ちょっとスピリチュアル的に言えば「お互いの持ってるものを学ぶために」ということでしょうか。
人生というのは何だかんだで壁にぶつかりながらも転がっていくものなんだな、と。そこには偶然の積み重ねやシンクロニシティ、意識的無意識的な物事が関わってきますが、あまり執着しすぎず、その時々の流れにのっていけば(周波数を合わせていけば)、自然となんとなく上手い具合に、結果オーライ的におさまりが付くのではないか。そんなことを作者は言ってるような気がします。