「生きる」とは何か?
奈緒子 (1) 坂田 信弘 中原 裕 by G-Tools |
わたくしはこの作品を読んで「生きる」というのはこういうことなんだろうなぁ、と思いました。たしかに走ることと人の人生を重ねるというのはよくありがちですが。でもなんでこんなに胸が震えてくるのか。主人公の雄介は走ってるだけで、奈緒子は悲しい顔でいつも涙を流しながら「雄介君、、」と毎回言って、はっきりいって同じことの繰り返しではあるのだけど。でも読んでしまう。
人が走る姿に何故こうもひきつけられるのか。人という生き物が、この世に生まれ落ちた瞬間から死へ向かっているという現実から必死になって抗おうとする姿でもあり、与えられた生を真っ当するため生命力を輝かせる姿、それらにみな共通の生への想いがあるから、頭や言葉でなく直接胸に飛びこんでくる衝動・感情として胸に伝わり揺り動かす。走るという行為は最もシンプルな表現であり、生きとし生ける者の本能に直接訴えかける。
生きるというのは悲しくもある。先に旅立ってしまう人がいれば残される人もいる。この世で生きていくというのは残される側である。置いていくなと雄介は言う。置いて行かれたくないから走る。でも旅立った人から見たなら、また旅立つ人から見れば今この世界を生きてる人や全てが輝かしく思えるはずである。父ちゃんや西浦監督は雄介に「走れ」と言う。純粋に、ただ走ることが単純に好きだった雄介はやがて人の想いを乗せて走るようになる。つらさを噛み締めて、それでもやっぱり「走るのが好きだから」生きる。生き続ける。
雄介は走ってる間に様々な人のことを思い出す。父ちゃん母ちゃん兄ちゃん、西浦監督、先輩と学校の仲間たち、権じい、本田、そして奈緒子。自分の身近なまわりにいる人たち、そういう人たちの想いに支えられて自分は走ってる、生きているというのが分かる。たしかに奈緒子は雄介の父ちゃんを失う原因を作ってしまったかもしれない。けど、奈緒子は確実に雄介を支えている。長い時間が経ってしまったけど、雄介はそのことを次第に自覚するようになる。あいつを泣かせたくない。あいつの笑った顔が見たい。だから走る。
『新たなる疾風』はマラソン挑戦編だけど、これはあえて無くても良かったかな、とも思います。ひょっとしたら前の段階で終わり、で描く予定ではなかったのかもしれませんが。個人的には前の駅伝の段階で奈緒子の想いを雄介が自覚してという、そこで終わっても良かったかなと。そのくらいのさりげなさの方が。『新たなる疾風』になってちょっとその辺が説明的というか、分かり易くなってるおかげで気恥ずかしささえ感じられたりもしますが、まぁでも最後の最後、奈緒子が雄介を見る顔が一点の曇りも無い顔で良かったなとも思います。
雄介と大介兄ちゃんと父ちゃん母ちゃんは本当にいい家族だな、と思います。この先も何度と無く波切島に戻りたくなる=この作品を読みたくなるのでしょうね。