ところで「盲点」て何のためにあるんだろ?
人間の視界には見えないポイントがあって、ソレを「盲点」という。たしかその点だけピントが合わなくなるとかだったと思うけど、じゃぁ何でそんなコトがあるんだろーか。だって危ないじゃない、生命維持活動的には。なのに何で自らそーいった弱点を作り出しているのだろう。
何でもいいから今、目に見えるモノを手に取る。ソレは「見える」から手に取るコトができる。ソレが「盲点」ポイントに入ると、見えなくなる。しかしモノ自体はソコに「ある」のだ。「ある」のに見えない。しかし実際は「見えない」と言っても、脳が勝手に盲点の前後を結びつける「像」を作り出してしまうため、まったくの「無」というコトにはならない。というコトは人間の脳は自分の都合のいいように、勝手につじつま合わせをしているコトになる。
今とある本を読んでいて「人間は錯覚して生きている生き物だ」と書いてあるんだが、ソレはワタクシの「人生は『思いこみ』と『反省』の繰り返し」と思ってるのと符号する。反省して学んでいくから、人間は向上するのである。この本については「やぎ本」で書くが、人生はすべからく錯覚で思いこみである。
この本とは話がそれるんだが「人は死ぬ間際に今までの人生が走馬灯のように甦って見える」だとか、ヒジョーに自分が危険な状態、危機にさらされてる時に「時間がゆっくり過ぎるように感じる」というのは果たしてどーいうコトなのだろうか。走馬灯の方は急に記憶装置が作動するのだろうか。何故?というより今まで制御していたモノが、制御不能となって意識内にドバーっと流れ込むんだろうか。
制御不能が起こるのは「時間がゆっくり」の時も同様、生命の危機状態だから身体の方が生命維持の方に力を尽くそうとするそのために、あまり生命維持には関係のない部分は力不足となり、制御も緩くなるのではないか。とにかく生命(いのち)を続けて行くためには、ある時は目の機能も耳の機能も絶ってしまう。絶ってしまうコトで、なんとか生命の方は維持できる、とそうワタクシは思うのだが。だから「時間がゆっくり」するのは身体が脳に全力を注いでるから、と考える。
そーすると苦行をするお坊さん、というのも納得するのではないだろうか。滝に打たれたりだとか断食したりというのは、自らを意識的に「生命危機」状態に追いこんで、脳に自らの力をフル動員し潜在能力を呼び覚ます、というコトのための苦行なのではなかろうか。
そーして考えると「危機感」が人間の能力を引き出す、というコトも言える。逆に「危機感」が鈍いと能力も衰える、というコトになる。今、鈍い人だらけだよね。あえてしているのか分からないけど。
というと自分を甘やかす、というのもほどほどにしないと出る能力も出なくなってしまう、と思うんだな。例えば抗菌グッズとかあるでしょー。アレでやりすぎると逆に雑菌に対する抵抗力が衰えるだとか。あと家の接着剤の匂いがどーのだとかいうアレルギー関係とか、たしかに害はあるんだろうけど、身体の方も過剰に反応したり何かが狂ってしまっている。本来あるべき能力が顔を出してないのでカラダが弱い。あと断食に近い形で、1日に水分とホンの少々固形物を摂取するだけで大丈夫、とかアレていうのも自分を危機に追いこんで、身体が「このままじゃヤバイ!」と思って、今まで隠していた力を出した、とそーいうコトなんだと思うな。カラダにいい飲み物とかあるけど、アレてホントは身体的には悪いんじゃないかと思う。ただソレを摂取するコトにより、一時的に身体を危機状態に追いこんで、カラダの能力が引き出されて調子がよくなる、なんてそんなの他の食べ物とかもそーなんじゃないかね。
やっぱり昔の人間は今よりもっと能力が長けていて、今の人間は能力が衰えているというコトなのだろう。だから「便利な環境」てどーなんでしょね。過剰すぎるとヤバイんでないの?無気力・無感動・危機感0人間ばかりになってしまうのかね。