『ほねのうずめ方』、、、!
で、ひきつづき定時制フィーリングネタ。前回書いたように69限目でいずみさんのニューアルバムのタイトルが発表されたんだけども、まぁ公表されたというコトなので、ココに書いてもいいでしょう。
その名も『ほねのうずめ方』!
、、まぁなんちゅうか、、し〜んみたいな、ぽかーんみたいな、数秒シコウテイシに陥らせる、スタンドに時を止められたみたいになるけど(笑)、でも後からじわじわ「、、なるほどなぁ、いいカモ」とも思えてくるタイトルで、時間が経つにつれ、コレはいずみさんならではというか、今のいずみさんにしかつけられないアルバムタイトルなんじゃないだろか、とすら思えてきている。
いずみさん扮する巨せんせいが定時制でも語られたように、意味としては一般的な意味としての「骨をうずめる」という、まぁおそらく音楽とか今の生活とか、全体的な自分の進む方向みたいなモノをこのまま変えずに骨をうずめていこう、ていう、いうなれば「不惑」宣言みたいなワタクシ的解釈なんだけども、あともうひとつ、ターニングポイントを折り返して、人生後半戦に入ってきた時に、今生の「ゴール」というモノを意識し始める、そんな年齢に差し掛かってきて、じゃコレから人生どう生きてくか、ゴールから逆算してどう今を生きるか、という、そういうような意味もこめている、と。
ソレを聞いて、僭越ながら、コレはワタクシも以前ブログに同じようなコトを書いたなと思ったのでリンクしときましたよ↓
http://d.hatena.ne.jp/katakotocafe/20140306
具体的にはコレですかねー。まぁ過去にもいくつか似たようなコトは書いてはいるんだけど、今ざっと見て今年でいうとコレだし、自分の考えがより言葉にできたなという感覚は書きながらあったので。逆算て言葉も入ってるしね。そんなにヘンなコト書いてるとは思わないんだけど。むしろみんなぼんやりとだけど似たようなコト考えてるんじゃないのかな?と。逆にわりと「常識」に近いんじゃないだろうか。
ちょと話それるけど、最近いろんなモノの処分というか整理をしてて、本もいるモノいらないモノに分けてたりするんだけども、あらためて持ってる本の読み返しをする中で、ある本にこんなコトが書いてあって。
例えばワタクシたちが「コレ好きだな」と思う時て、「なんだか分からないけど好き」ていう、理由が自分でも分からない場合て多々あるじゃない?で、あとから「コレコレこうだから好き」と理屈をつけてみたりする。理屈て後づけなのね。ココまではいい?で、ソレて大脳皮質だったかな?ソコで理屈の後づけをしてるんだけども、「なんだか分からないけど好き」と感じるのは、脳の「扁桃体」(へんとうたい)て場所で判断してるらしいのね(記憶があやふや、、)。その「扁桃体」てのは、たぶん危機とかに対する防御とか本能を司る部分だと思うんだけど、、ようするに大脳皮質を迂回してこない。だから脳内の思考の流れというか、考える、自分が意識するより速いんだよ。いわゆる直感。文字通り「直」な「感覚」だから、考えるよりダイレクトなんだね。
こういうショートカットがなぜ必要かというと、たとえば身の危険を察知した時に、いちいち考えて行動するより、「なんだか分からないけど」避けるとかするでしょ?普段の生活でワタクシたちも普通にやってるコトだけども、ようするに何を言いたいかていうと「意識は後から」なんだよ。そうするとさ、じゃあ自意識ていうか自我とか「私」というモノて何?てハナシになるんだけど、まぁソレは今回の主旨からハズれるから置いといて。
で、ココでは何を言いたいのかというと、意識を「現在」「今」と仮定すると、ソレより先の「感覚」とか「身体」の方が「未来」を先取りしてる、とも言えるワケで。コレはまぁ前回の、リンクした3月6日のブログの補足になるんだけども。
だから何言いたかったんだっけ?えーと、、たぶんもっと自分の直感が指し示したりするモノ・方向を信じていけばいいんでないかい?ていう、おそらくそんなコトだな、うん(笑)。
そして『ほねのうずめ方』にハナシを戻すんだけども、時間がないわー。ココで失礼。
つづく