タイムマシンは自分の中にある。
最近、瞑想について考えてるんだけど、ソレと昨日の追い越し車線の話といつだかに書いた意識‐無意識という軸の話とを組み合わせて書こうと思う。
瞑想てのもいろいろあるみたいなんだけど、まーあんまり詳しくは知らないんだよ。でもたぶん自分の雑念を取り払うというか、たとえば目をつぶって座禅かなんか組んで、自分の思考を観察するんだよな。「なんかちょっと飽きてきたな」とか考えてもソレを否定するんじゃなくて「自分は瞑想に飽きてる」とかすぐ認識してあげる、ていう作業をしてくみたいなんだよ、どうも。ソレて思うんだけど、自分を客観視するみたいなコトじゃない?俯瞰視というかさ。
思考(雑念)→確認・認識を繰り返すコトによって、「肉体である自分」と「意識体としての自分」とに別れるというかさ。鉄人28号てあんじゃない?鉄人を正太郎くんがコントローラーで操縦する。鉄人=肉体、鉄人を操作する正太郎くん=意識体、なんだと思うんだよな。ソレを「鉄人と正太郎くん」ではなくて自分1人でやるワケだ。「意識体」という言葉を使ったのは「魂」だと「幽体離脱」みたいになっちゃうじゃない?ソレは意味が違ってくるから、正しいかどうか分かんないけど「意識」というか「意識体」というか、そんな言葉を使ってみた。
ようするに瞑想の最終的な目標というのがあるとしたら、肉体と意識体が常に分離してる、もしくは肉体に意識体が常に入ったり出たりを繰り返してるような、いわゆる「生きながらに死んでる」という常態にもってくのが究極なんじゃないかな、と。
で、ココで昨日の追い越し車線の話がでてくるんだけど、別れるていっても、肉体はこの世界にあるけど、意識体はドコに行くのかていうと、追い越し車線=この世界「外」に行くんだよ。ソコに存在する。だから昨日書いたように意識体は「全てのコトが同時で起こってる場所」にある。過去も未来も全てのコトが。
となると意識‐無意識の軸、コレが実は追い越し車線(=この世界「外」)なんじゃねぇか?と思ったんだよな今日。てコトはタイムマシンて自分の中にあるんだよ、とこう考えたワケだ。