表現手段としてのカラダ。
「ひらめき」についてだけでなく、もっと風呂敷を広げたモノになったけど、また何か思うトコロがあったら書くコトにして、今回はちょっとソレから派生したモノで。
「想いが現実化」てのはこの3次元と言われる世界ではなかなか容易なコトではない。気持ちというのはソレ単体ではなかなか相手には伝わらないワケで。でも幸いにしてワタクシたちは身体・肉体というモノがあって、コレを気持ちを伝える道具であり手段、ととらえれば肉体を通して自分の気持ちを伝えるコトができる。そのためにアスリートやアーティストの人たちは日々切磋琢磨している。
ワタクシたちが何故この「肉体」というモノをわざわざ持って生まれたのか。いや、「持って」でもいいけど、魂=身体とするならなぜわざわざ魂がこの形態を採用しているのか、でもいい。こういう形をとらなくても魂同士で容易く意思疎通ができそうなモノを、むしろジャマになるのではないか?でもたぶんこの3次元の地球という星だとこの形態をとらないといけないんだろうな。
何故だかワタクシたちはこの星に、この肉体を持って生まれてきている。というコトは肉体を持ってるという「そのコトを面白がってる」としかワタクシには解釈できない。もちろん健常者ばかりではないから、そう簡単に面白がってるとは言えないのだけど。
なんでわざわざそんなカラダなんていう制限された形態をとってるの?チャレンジするのか?と。もし地球外生物なり宇宙意思みたいな存在がいるとすれば、そう思うんじゃないの?そしてチャレンジするコトに対して賞賛してるのではないだろうか。わざわざこの形態をとってるんだから、もうコレは生きてるソレ自体が表現そのモノでしょう。
だったらこの肉体を持ってるコト・この肉体で在るコトを面白がろうではないか。どれだけこのカラダでこの世界で生を表現できるか?ていう勝負(別に勝ち負けじゃないけど:笑)なのよコレは。