連続する自分。
先日、電車に乗ってたら隣に座る高校生2人がなかなか面白い話をしてた。
「もし自分とまったく同じ自分みたいな人間がもう1人いたとして、そいつと脳みそを取り替えたらどうなるんだろ?」
たしかそんなような内容だった。そして
「もし自分とまったく同じような人がいたらどうする?」
この問いに相方の学生は即「え〜いやだよ」と切り返す。「なんで?おもしろいじゃん!」などと、そんな会話をしてる。
まぁでもSFではよくありがちな話。だけれどもよくよく考えてみたコトはなかったので、こうやって改めて口に出されたモノを耳にするとなかなか興味深い話ではある。
まず「脳みそを取り替えたら」。コレはまぁソコまで行かなくても、例えばどこか身体の機能の一部を失ったとする。足なら義足とか手なら義手とかそういったモノを身につける。ソレは生まれた時からの自分のモノではない。でも「自分」という人格というか人間性というかアイデンティティはそのまま続いている。当たり前だ。「義足になった」「義手になった」と思ってる自分がいる。そう考えるのは、かつては「義手義足でない自分」という自分の過去の姿を知ってるからで、その変化を認識してるからである。
コレをもっと推し進めて拡大して、頭を残して他身体全部が自分のモノではないモノになったとする。ソレでも頭はそのままなのだから自分のアイデンティティは保たれている。なので脳みそを自分とまったく同じ人間だろうが動物だろうが何かに移し変えたとしても、脳みそさえあれば自分のアイデンティティというのは保持されてくのだから、「自分の姿が変わっちゃったな」と考える、今までと変わらない自分がいる、というコトになる。
変化。別に特別なコトを例に取り上げなくても、人は生まれてから日々老いに向かっている。歳を取れば成長し自分の姿形も変わる。だからといって自分というモノがまったく別のモノに変わるワケではなく、自分というアイデンティティは続いたままで、死ぬまで変わらない。
もう1つの「もし自分と同じ人がいたら」。コレはたしかに「面白い!」ていうのもあるだろうけど、たぶん面白いのも一時的なモノなんだと思う。ひとしきり楽しんだらイラっとくるでしょう。相手もおんなじコトを思ってる。何を言っても同じタイミングでしゃべる。同じタイミングで聞き返し、同じタイミングでうなづく。まるで鏡に映る自分を相手にしてるようなモノだ。
人というのは他人がいて初めて自分が成り立ってる、というトコロがあると思う。「自分と同じヤツ」がまだ1人ならいい。でも世界中の人が自分とまったく同じ人ばかりだとしたら、コレは「他人」が存在しない世界だ。全員「鏡に映る自分」なのだから。ただ単に自分が多数いるだけである。
人は「他人と自分とは違う」というコトを、無意識的にでもどこかで認識していて(成長しながら自・他を学ぶ)ソレが物事の前提だから、自分の意見や考えに他人が賛同してくれたり共感してくれたりするのが嬉しい。ソレが例え勘違いだとしても分かり合えたと思えたコトが嬉しく、相手に親近感が湧く。親近感というのは他人との距離が縮まったと感じるコトである。他人とは距離がある。でも自分と同じ人だらけの世界では、「他人」がいないのだからゼロ距離である。
今回言いたいコトはソレだけである。だから何?と言われても困る。結論は無い。特に教訓めいたコトも無い。ただありがちなSF的なお題について、あらためて考えてみたらこうなった、というだけのコトだ。