君たちがいて、僕がいる。前編
つづき?ではないカナ(笑)。「ライブのつづき」ではないカモしれないけどまったく関係なくもないコトをば。
もし地球に人が1人しかいなかったら、その人が死んだらおしまい。2人いればそのリスクが半分になる。4人8人、、そして60億の人がいれば、ソレだけ人類という種が残る可能性が高くなる。この世にいろんな人がいてソレゾレいろんな生き方をすれば、ソレだけいろんな生き方の可能性があるというコトだ。グローバルとかナントカでソレを重いコンダラで(BY巨人の星。ちなみにアレは「コンダラ」ではなく単に「ローラー」)地ならしして「みんな同じ」にしてしまうのは、そのいろんな可能性を減らすコトになってしまう。人類存続の可能性を減らすコトになる。自分が良いなと思うコトは他人に「コレどう?」て言ってみるのはありカモしれないけど、我こそ正義!と拳を振りかざすて押しつけるのはナンセンスだ。
自分とまったく同じ生き方をしてる人なんて自分以外いない。例えクローンでさえ違うだろう。だから「自分らしい自分」なんていう言葉は本来成立しない。その人はそのままでその人そのものでその人しかいないのだから。100%あなたで「自分」なのだ。ソレを「らしく」と考えるのはかえって「らしく」ないのではない?不自然だ、というコトになる。考えなければ自分「らしく」ならないのか?ソレが自分「らしい」のか?
だからコレは言葉が間違いで、「自分らしく」というよりは「なりたい自分」がイメージとしてあって、そのイメージに近づきたい、というコトだろう。
「なりたい自分」「こうしたい自分」。理想の自分の具体的かつ現実的なイメージをまだ持ててないから、人は「自分探し」をする。ただ「コレはちがう!」というコトだけは分かってる。
改めていずみさんの昔の楽曲を聴き直してみると、いずみさんも分かってはいたんだなぁ、と思う。しかし「でもできない!」(永遠のパズル)だったりする。分かってるのにできない自分を認めない。「わたしを愛したい」(失格)。わたしを愛せないから愛し「たい」と願望の言葉になる。
自分追求をしても幸せにはなれない。コレは今だからそう思える。「自分らしくない自分」を否定するコト。ソレは自己否定だ。現在の自分の否定。まだ見ぬ理想の自分像に執着するコトで現在の自分がおろそかになる。理想(幻想)と現実のギャップに苦しむコトになる。まずは現実の自分を見つめて良いも悪いもまるまる受けとめるコトでしか始まらない。人は良心ばかりではなく邪念もあって全て自分なんだと。ただソレを、特に若い頃はなかなか認めるコトができない。子供てそうでしょ?20代になっても(人によってはもっと歳を取っても)ソレを引きずってる。でもソレは心配しなくていい。だんだん良いも悪いも認めるコトができるようになる。そういうモンだと思う。ソレが大人になるてコトなんだと。
いずみさんは分かってたなという歌がもう1つある。ソレは『サルの歌』。歌詞に出てくる「あの人」は「素直になれ」と優しく言う。曲の主人公の女性が自分自身を認められずにいるのに、「あの人」は主人公の女性を受けとめる。主人公=自信が無い。あの人→主人公を信じてる。こういう構図だ。
自分の内にこもって心を閉ざしてる。内向きで外界を遮断してる。ソコに誰かが「優しく」手を差し延べる。心を開く=外に目が向く。自己否定でいると、自分自身が自分に心を開いていない(=自分に自信がない)し他人にも開いてないのだから、なかなか他人も心を開かない。このへんは鏡の関係だ。でも「自分を認め素直になる」と他人も心を開くようになる。他人という存在がいて初めて自分という存在が成り立つ。他人の承認があるから、自分は自分でいられる。ソレが自尊心というモノであって、自分を信じるという「自信」につながる。
自分らしくない自分を受け容れられないと過去のいずみさんは歌っていた。そのいずみさんがそういう自分も含めてまるまる自分なんだと自己肯定した歌が『New Song』だとワタクシは解釈する。だからNewなんだなぁ、生まれ変わったんだなぁ〜と。そして自分の過去の良かったコト悪かったコトも含めて「全部今のわたしの足跡」と歌う『足跡』、連綿と続く過去、そんな過去と現在とコレから来るであろう未来、という時間軸を歌った『Family Tree』。いずみさんをそういう心境に変えたのは、やっぱりいずみさんの旦那さんの存在がとても大きいんだと思う。つづく