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子供の瞳に映るもの。〜ガンダムOO〜

刹那は常々「歪み」と口にしてたが、ファーストシーズンを見てるうちに次第にワタクシは「刹那のような子供が戦うというコト自体がすでにおかしい」と思うようになった。ソレはマリナも劇中で言うコトになるのだが。
内田氏の著書を読んでて「コレは!」と感じた文章を引用する。
「絶えず国家のシステムの崩落や通貨制度の解体や隣人によるテロや略奪の可能性を勘定に入れて行動しなければならない国民はたしかにデインジャー(=予想不能・考慮不能が危険)対応能力は高まるだろうけど、不幸な国民である。」
コレは刹那が少年の頃に置かれていた状況そのものだ。刹那はモノゴコロついた時から、すでにまわりは戦場で毎日が戦いの日々だった。子供の頃からそういった状況に身を置いている。ソレは正常な状況とは到底言えないし、そんな中では人格が歪んでしまうのも当然である。刹那は彼が置かれていた状況から、「戦うコトでしか世界の歪みを正せない」という思考に至ってしまうのだ。身体に沁みつきソレが細胞にまでなってしまったら、人はなかなかそのフレームから脱け出すコトはできない。人が育つ環境というのがいかに重要か。そして自分を導く存在の重要性というのが。
子供をどういった大人が導くのか、というのが問題なのだ。テロ組織のボスだったサーシェスのような人間なのか、マリナのような人間か。はたまたリボンズのような存在か。
「世界の歪み」とは言っても、「世界」とは概念に過ぎず、その「世界」というモノは結局は人1人1人が構成してるモノだ。1人1人の心情・思考してるコトで世界は成り立っている。
ワタクシはOOでいう「量子」とは、リボンズの「支配」と相対するモノなんだな、と最近解釈した。
量子論といえば不確定性理論。物質を構成している原子以下の物体は「揺らいで」いる。物質であったり、時に波であったり。揺らぎながらもある秩序がある。この揺らぎを「多様性」と置き換えてみると、コレは「支配」とは逆になる。
支配とはある1つの方向にムリヤリにでも秩序づけてまとめるようなコトだから、多様性は許されないのである。人があっちゃこっちゃ向いてたら統制は取れない。統制を取るためには支配的なやり方の方が安易で、確定的な未来の方がいわゆる「想定の範囲内」で望ましい。
ソレに対して、人々の様々な思考を許し受け入れながら(多様性に寛容になりながら。複雑系。)、1人1人があっちこっちいろんな方向を向きながらも(揺らぎながらも)、ゆるやかに1つの方向に秩序を持って自然にまとまっていけば、、というのがたぶんマリナの希望であり理想である。
だがコレは人の多様性を認めているのだから時間がかかる。中には戦いを好む者や気が短い者、様々な人がいてソコには感情が渦巻いてる。ソレをいかに忍耐心を持って、寛容になりながらも信じ続けるという、腰をすえてとても長い年月がかかるコトをしなければならない。
この時間のかかりようが耐えられない、すぐ答えを出したいからその手順を省いて、人は「戦う」という行為で力で分からせようとする。だがコレでは真に解決には至らないのは歴史が証明している。しかし人は愚行を繰り返す。「待てない」という人の心の弱さ。ソコから「歪み」は始まる。
思えば刹那には「母の愛情」というモノが欠乏してた。だからマリナの持つ「母性」に刹那は無意識的に魅かれていったんだと思う。刹那は生まれてこのかた父権制イデオロギーにベッタリだったのだから、ソレは当然の流れなのである。
ココにもう1つ、内田氏の著書からまとめたモノと文章の引用を。
 「父親が子育てで子供に求めるモノ→子供同士の競争で勝ち残るコト。システム(日本というシステム)内競争。努力→競争。
 母親が子育てで子供に求めるモノ→弱くても生き延びるコトができる。群れと共にある。システム崩壊のときに生き残るための資質の開発。
 システムの中で同類たちとの生き残り競争に参加せねばならず、ソレと同時にラットレースがその中で行われているシステムそのもののクラッシュに対する備えもしておかなければならない。よってどちらも子育てには必要。」
コレは男女の本能的な特性だと思うのだが、やっぱり男は狩りに行って女は子供を守るという、男→攻め、女→守り、みたいな構図はある。女性の場合は子供を守る自己防衛本能というかね、。そういうあらかじめ備わってるモノがあるから。でもマリナ的な思考100%でも、偏ってしまっていけないんだとも思う。父親的なモノと母親的なモノ、双方の割合がいい具合に調和していないと、子供というのは精神的に健全に育たないのではないか、とも思う。
ソレとワタクシたち日本人の多くは、先の「デインジャー対応能力」「システムクラッシュに対する備え」が欠けてる。いわゆる平和ボケというヤツだが、OOでいえばソレは沙慈の役割だった。偽り(OOの劇中で言えば)の平和の中で安穏として暮らしていた日常から、刹那によって真の世界の姿を知らされるコトになる。ソコから再び日常に戻った沙慈はもう以前のように無視はできない、正面を向き合って世界と対峙していかなければいけない、というコトに気づく、というトコロで話は終わる。
ソレがOOの提議だと思う。だから人類はもういいかげん子供ではいられないのだ、幼年期時代は終わりだ、幼年期に別れを告げて世界を見据えよう世界をしっかりとらえよう、未来を担う子供たちのために、コレから生まれてくる命のために、というコトなのだと。
刹那やマリナはリボンズの支配的で確定的な未来ではなく、不確定な未来を選択した。しかしソレが正しいかどうかは誰にも分からない。正しいかどうかは事後的にしか分からないのだから。ただリボンズ的なやり方は「ちがう!」としか言えないだけだ。人々の様々な考えを認めるというコトは善悪、どちらにも転ぶ可能性はある。コレからも人は愚行を繰り返すカモしれない。しかしソレは戦うコト以外の方法を選ぶべきだと思う。1人1人が寛容になり、時間をかけて受け入れるしかないのだ。
子供の時の記憶が「戦いの絶えない日常」しか無いなんて、悲しすぎる現実をなくすために。