Wonderful Life LIVE その2。
しかしそうは言ってもやっぱり思い描く自分と現実の板ばさみ、というのはツラい、、。いずれ来るであろう現実の方がナンダカンダ理想を言ったって強いからだ。
かといってすぐに親がどうこうなるワケでもなく、まぁあと10年はこのまま何の問題もなく五体満足で健康だろうと。でも10年て長いようで短いようで、、。オリンピックが2回来てあまり2年。そう考えるとそんなに長くもない。まだ今は普通に笑ったり怒ったりしてる。けどいずれ老化で頭の調子が悪くなればそういう「普通」の関係ではなくなる。そうなれば、逆にもう「普通」だった時と比べてはいけない。昨日の親と今日の親は違う人。今日は今日の親であって、その日限り。ある意味で「親」という想いも立ち切って割りきらないとやっていけないだろう。10年という時間にこだわる必要はないけど、「その時」が来るまでは意外に短い。
できれば親孝行をしたいという思いもある。父親が自分を育ててきて良かったなと少しは思えるように。でも今の状態では到底及ばない。迷惑かけてばっかりだ。だからせめて親の面倒は見ようと思った。でもタフの「やれるふりなんてしないで笑え」という部分を聴いた時、「できねぇなー!」とも思った。そんなんできねぇーと。親孝行なんかできねぇ〜よ。
前にも「親に自分の生き方を見せて、、」なんてコト書いたけど、たぶん子供なんて親に心配させて迷惑かけっぱなしで終わるんだよ。いずみさんとか表現者なら、自分の舞台を両親に見てもらうコトで喜んでもらうコトはできるだろう。そういう場がある人はソレが親孝行になると思うけど、自分にはそういう場もないしムリだな。できるとするならば、自分の子供にかな。上ではなく下の、自分の子供に対して教えたり愛情を注いだりてコトなんだよな。親はたぶん死んでから魂になった時、下界の自分の姿を見て喜んだりするんじゃないかな。だから親に対して何か意図を持ってどうこうてできないんだよ。急に親にとっていい子になるなんてムリなんだな。
こういうコトを思ったのは、やっぱりいずみさんが結婚して娘さんができて、会場後のPAのあるブースに旦那さんが真里亜ちゃんをだっこしててとか、旦那さんがメガホンを取った近日公開の映画『ぼくのおばあちゃん』の歌とか、そういうのがあいまって、人の生と死とか一生とか人生とかが頭の中をグルグルうずまいたからであって。
『ぼくのおばあちゃん』のサントラに詞をつけたという新曲『バースディキャンドル」を聴いて、始めは真里亜ちゃんに歌ってるのかな?という思うような歌詞だったし子守唄のような感じだったけど、聴いてくうちにそうじゃないのかな、コレはこの世を旅立ってく人を悲しむ、残された人へ向けての歌なんだなと思った。残された人たちへの鎮魂歌。そして弔いでありながら誕生を祝う歌。
葬式とかお通夜とかは儀式であって、ソレはどちらかいうと旅立ってく魂へ向けて、というより残された人への「区切り」なのだ。ソコで一端お別れをする。
ワタクシは「死」というのは、本人にとって必ずしも悲しいコトではないと思う。たしかに志半ばでこの世から離れなければならない場合もあるだろう。でも自然の流れで旅立つのは、この世界で学ぶべきコトを学んだからだと思う。より詳しく書くと、学ぶべきコトを学んだ魂はまた他の世界に学ぶべきコトがあればソコの世界で学び、学ぶべきコトを学べなかったり不完全なら、もう1回その世界でやり直し学び直し、というコト。ソレは本人が自由に選択する。学ぶべきコトを学んだなら、その人にとってはその世界の「卒業」であって、ソレは喜ぶべきコトなのだ。むしろ拍手で送ってあげる。日本は死を悲しむが、中国だったかな、爆竹を鳴らして盛大に盛り上げて死者の魂を送り出す。死のとらえ方は国によって違う。
ワタクシはこう思う。実は「死」という概念は無く、死んだ瞬間どこかの世界で生まれ変わる。生まれ変わるというよりも魂自体が1つのモノであって、いろんな世界を旅している。途切れが無く未来永劫永遠のモノ。魂が次に行きたい世界へドアトゥドア。生きとし生けるモノすべては自分の中にどこでもドアを持っている。つづく